呂布の人気が高い理由… 戦時中の貞操観念や日本の男性観が作品に与えた影響とは/三国志-研究家の知られざる狂熱-②

文芸・カルチャー

公開日:2020/4/26

「劉備が諸葛亮に遺した遺言が、しっくりこない!」。三国志の研究家は、何を「問題」と考え、何を「研究」しているのか? 120以上の論文を書き上げた第一人者が、その知られざる“裏側”と“狂熱”を徹底解説。

『三国志-研究家の知られざる狂熱-』(渡邉義浩/ワニブックス)

武将たちの戦争絵巻

 横山光輝は、学校の図書館で吉川英治の『三国志』を読んだことが「三国志」への関心のルーツであったと述べています。「武将たちの戦争絵巻」を目指したという横山『三国志』は、吉川『三国志』と同じく、諸葛亮の死後、急速に物語を終わらせます。横山『三国志』は、諸葛亮と曹操を中心に描く吉川『三国志』の影響を色濃く受けて構築されているので、劉備の母も登場しています。

 とはいえ横山『三国志』は、吉川『三国志』をそのまま踏襲しているわけではありません。『三国志演義』あるいは『三国志』や『後漢書』において、後漢を蝕むものとして描かれている宦官(かんがん)(宮中に仕える去勢された男性)は登場しません。これは、主役の一人である曹操の出自とも関わり、横山『三国志』の独自性の一端といえます。

 横山『三国志』は、曹操が初登場する場面で、祖父曹騰(そうとう)が宦官であることを記していません。実は、吉川『三国志』にも、吉川が種本にした湖南文山の『通俗三国志』にも、宦官の孫であるとの記述はありません。それは、湖南文山が、翻訳の底本とした李卓吾本『三国志演義』の曹操の冗長な出自話を嫌って省いたことに由来します。それでも、吉川『三国志』では、曹操死去の場面でようやく出自に言及し、宦官の孫であることを明らかにしています。

 横山『三国志』は、曹操の祖父に限らず、すべての宦官を作中に描いていないことが大きな特徴となっています。単行本二十巻までが児童向けの雑誌に発表されたこともあり、品行方正な表現を心がけたのではないかと考えられます。

 あるいは、横山『三国志』が目指した「武将たちの戦争絵巻」の主人公である曹操の出自が宦官であることを避けようとしたとも考えられます。そうした工夫は、貂蝉(ちょうせん)と呂布(りょふ)の記述にもみてとれます。

呂布の男らしさを守る

「三国志」のなかで、個人として最強の男は呂布です。史書や『三国志演義』系の物語でも同じです。

当時の人々は(軍中)語をつくり、「人中に呂布あり、馬中に赤兎(せきと)あり」と称した。

『三国志』巻七 呂布伝注引『曹瞞(そうまん)伝』

 軍中語とは、軍隊のなかで行われた人物評価です。この言葉は、呂布が袁紹(えんしょう)を助けて、黒山(こくざん)の張燕(ちょうえん)と対戦したときの勇姿を愛馬の赤兎馬と共に称えたものです。

 一方、『三国志演義』では、張飛・関羽・劉備の三人を敵に回して戦う虎牢関(ころうかん)の戦いから、呂布の強さを窺い知ることができます。

呂布をくい止めた者は、丈八(じょうはち)の蛇矛(だぼう)を手にした張飛であった。張飛は呂布と五十回以上も打ち合ったが、勝負がつかない。これを見た関羽は、八十二斤の青龍偃月刀(せいりゅうえんげつとう)を舞わせて、呂布を挟み討ちにした。三頭の馬が丁字形になって攻め合い、三十回も打ち合ったが、呂布を打ち負かせない。劉備は二本の剣を抜くと、黄色いたてがみの馬を走らせ、斜めから切り込んで加勢した。三人は呂布を囲み、回り灯籠のように力を合わせて戦った。形勢不利とみた呂布は、劉備に脅しの一撃を加え、劉備がかわすところを馬を飛ばして退却し、虎牢関に逃げ込んでいった。

毛宗崗本『三国志演義』第五回

 戦いそのものは呂布が退却しているので、劉備・関羽・張飛の勝利なのですが、三人を同時に相手にした呂布の武力に圧倒されます。

 呂布の武力により董卓(とうたく)を打倒するため、後漢の司徒(三公と総称される三人の宰相の一人)である王允(おういん)の立てた計略が「美女連環の計」です。史書には、架空の人物である貂蝉を利用した計略は、当然ながら記されていません。

 董卓と呂布がともに好色漢であることに目を着けた王允は、歌姫の貂蝉を使い、二人の仲を引き裂きます。王允に誘われた呂布は、董卓を討つことを決意します。王允が作った偽の詔で呼び寄せられた董卓は、呂布に殺害されます。『三国志演義』では、貂蝉はこののち呂布の妾となります。

 吉川『三国志』の貂蝉像の真髄は、「美女連環の計」を成し遂げた貂蝉が自刃することにあります。「獣王の犠牲」になった肉体を「彼女自身のもの」にするため、すなわち貞節を守れなかった自らを取り戻すために自殺するのです。ここには、日本の戦時中の貞操観念が色濃く反映されています。

 横山『三国志』も、貂蝉が自刃する場面を吉川『三国志』から継承しています。一九七〇年代の日本は、まだ貞操観念が強かったからでしょう。

 ただ、横山『三国志』の自刃した貂蝉は、安らかな表情をしています。そこには、「貞節を守れ」という圧力に屈して死んだことが微塵も感じられません。王允に報いるための命懸けの計略を成功させ、目的を果たしたという、充足感に満ちています。横山『三国志』は、自刃した貂蝉の表情により、凛としたその生き様を描いたのです。

 また、吉川『三国志』では、貂蝉の死を諦めきれない呂布が、貂蝉に似た女性を「貂蝉」と名付けて寵愛するという虚構が加えられています。下邳城で包囲された呂布は、側近を信頼せず、「日夜酒宴に溺れて、帳にかくれれば貂蝉と戯れ、家庭にあれば厳(げん)氏や娘に守られて」いました。

 そして、ついには三国一の武勇を誇ったはずの猛者は、曹操の捕虜となります。ここには、未練がましい男は滅ぶという戦時中の日本の男性観が反映されています。女々しい呂布の末路は、愛欲に溺れた人間がたどる破滅への道だったのです。

「武将たちの戦争絵巻」としての『三国志』を目指した横山光輝は、吉川『三国志』の偽の貂蝉に溺れる呂布像を継承していません。三国一の武勇を誇る呂布が女々しければ、「武将たちの戦争絵巻」は精彩を欠くからです。

 横山『三国志』は、自刃する貂蝉の凛々しさと、呂布の武勇とを完全に描きました。日本で、三国一の美女貂蝉、三国一の猛者呂布の人気が高い理由はここにあります。

<第3回に続く>