動物を愛する「ズー」たちは、なにを求めているのか。愛とセックスがわからない私がたどり着いた答え【読書日記20冊目】

文芸・カルチャー

公開日:2020/5/25

この記事にはやや過激な表現が含まれます。性被害サバイバーの方のスキップをおすすめいたします。

2020年4月某日

 ベッドに横たわると、彼女は私の身体に添うように身を寄せてくる。わずかに香る獣の匂い。ヒトの乳房よりもはるかにやわらかな水袋のような腹を撫でると、気持ちよさそうにゴロゴロと喉を鳴らした。

 彼女は世界で一番かわいい。

 指を下方へと這わせてももの内側をさすると器用に仕舞われていた足がピーンと伸びて、こんなに足が長かったんだと毎度のことながら美しい直線を眺めた。今度は私と彼女の身体の隙間に手を差し入れて、尾の付け根をそうっと撫でてみた。目を瞑って穏やかに上下していた身体が突然グググッと弓なりになる。その瞬間、私の腹から首までを閃光が駆け抜けて裂き、瞼の裏を、安堵にも近い快楽がじんわりと白く染め上がるのだった。

 いつの頃からだったか、私は自分の身体に奇妙な感覚を覚えていた。

 痛みを伴わない歯医者の麻酔のように、恐らくは今、私は触れられているのだろうという頭の上での理解だけが宙に浮いていた。視界はぼんやりとしていて耳が遠くなり、触れられても“いい”のかよくないのかさっぱりわからず、何をされたいという願望もない。方角が合っているかわからない道を進んでいくのは不安で、自分のやり方が正解なのか、少なくとも及第点には達しているだろうかと怯えながらの行為で、相手の満足そうな顔を見るとホッとした。今日も、大丈夫だった。

 セックスの最中の身体の感覚はいつもぼんやりしていたけれど、辛うじて“わかる”状態から全く何も知覚できない状態に転じるとき、傍らにはいつも暴力があった。しばらくすると辛うじて“わかる”状態にまで回復はするものの、波が砂をさらっていくように、感覚がそれまでよりも削げているのがわかった。そうして徐々に、私は感覚を失っていった。

 思い返せば奇妙な感覚は他にもあって、セックスの最中に自分がその場に“いる”ということもよくわからなかった。私は相手を見つめているはずなのに、どういうわけか私の視点はいつも相手の視点だった。五感がぼんやりする中で私は匿名の女を抱いていた。相手が動けば私も動いているような気持ちになり、相手が手を振り上げれば私も手を振り上げる。そして、事後しばらく経ってから、私が“抱いていた”のは、振り上げた手の打擲を受けていたのは、私自身だったのだと気づいて愕然とするのだった。

 そういうことを繰り返していくうち、私の身体はおしなべて何もわからなくなってしまった。わからないどころか、ヒトのオスというだけで全身が過剰に拒絶した。性的か否かに拘わらず興味を持たれるだけで怖くなり、電車で知らない男性と隣り合えば呼吸が苦しくなった。性別問わず人と関わるのも億劫になり、塞ぎこんだ私にとって唯一の拠りどころは一緒に暮らしている猫のみいちゃんだった。

 みいちゃんは自分の気が向いたときに四つ足の状態からパタンと倒れ、「撫でろ」と言わんばかりに私に身を寄せてくる。腹を撫でれば気持ちよさそうに身をよじらせ、撫で方が違えば抗議する。

 みいちゃんは人間のように言葉を持たず、よって建前の奥を推し量る必要もなく、存在を以て真実らしきものだけが示されることに私はとても安心感を覚えた。自分の快楽を知っていて、それをまっすぐに伝えられる性質は少なくとも私にはないもので、私は彼女を羨望した。そして、いつしかみいちゃんに触れている時間だけは身体の感覚が戻ってくるのがわかった。

 人間に接することができない私が、猫であるみいちゃんにだけそういう感覚を覚えるのは、もしかしたら変なことかもしれないと最初は戸惑っていた。でも、私にとってみいちゃんは、猫という以前にみいちゃんだった。

 そんなことをTwitterで呟いたとき、ある方に1冊の本を勧めていただいた。私の信頼する読書家の方々が絶賛しているのをTwitterで見て昨年末からずっと気になっていたし、実際にいろいろな人から私信でおすすめされていたのだけど、あまりにダイレクトに刺さってくるのではないかと思って読むのを先延ばしにしていた。

 でも、暖かくなってきて体調も安定してきた今なら読める気がした。背中を押してもらった勢いで本を注文し、何かを諦めるような気持ちで到着を待った。その本とは、濱野ちひろさんの『聖なるズー』(集英社)だった。

『聖なるズー』には著者である濱野さんが、30代の終わりに京都大学の大学院に入学し、文化人類学におけるセクシュアリティ研究として「動物性愛」を調査するためにドイツにある動物性愛擁護団体「ゼータ」に所属するメンバーと交流した軌跡が綴られている。

 動物性愛とは、〈人間が動物に対して感情的な愛着を持ち、ときに性的な欲望を抱く性愛のあり方〉のことで、動物性愛者は自らを「ズーファイル(zoophile)」の略語である「ズー」と称する。よく混同されがちな獣姦愛好者を意味する「ビースティ」や、動物への性的虐待者を意味する「ズー・サディスト」とは異なることは予め付しておきたい。

 セックスの話題はセンセーショナルなため、「動物性愛」の話というと性行為の話に注目が集まりがちだが、ズーの本質は「世界や動物をどう見るか」にある。ズーの家では動物と人の「対等な共存」を大切にすること、ズーたちは動物それぞれにあるパーソナリティ(気性)を愛していて動物ならば何でもいいわけではないことなどが読み進めるうちにわかってくる。

 こう言葉にするととても陳腐で、伝えたいエッセンスを取り零してしまうようで歯がゆいのだが、本書では「対等とはどういうことか」「人間の都合のいい解釈をしているのではないのか」といった素朴な疑問へのアンサーを、ズーたちの言葉や行動を以て丁寧に返している。だから、できればやはり本書を読んでほしい。

 また、本書の“物語”は、濱野さん自身の過去なしでは語れない。本書の根底には、10年もの間、交際相手から、性暴力を含む身体的・精神的暴力を振るわれていた濱野さんが、その後も自分を苦しめ続ける問題に対して向き合っていく人生をかけた信念が流れているからだ。

「動物性愛」を研究テーマに選んだきっかけこそ指導教員の勧めだったが、「人間の性的欲望の不可解さ」が垣間見られるテーマに、「愛やセックスを理解したい」という自身の強い欲求が何かしら重なるのではないかという直感があったと本書の中で濱野さんは話している。

 他人に自分を投影するのは差し出がましいと思いながらも、私の頭の中にはいくつかのことが情景となって浮かび上がっていた。なぜか強い関心を惹かれて、飼っていた犬に恋愛感情を抱いたというアーティストにインタビューさせてもらったこと、過去してきたセックスについて、みいちゃんのこと、私自身が愛やセックスについて探求し仕事にまでしていること、思えば5年ほど前から徐々に失われてきた身体感覚について。

 1ページめくるごとに、読むのを先送りしたかった直感が確信に変わっていき、過去にメスを入れる覚悟はあるのかと肉薄される心地がした。たかだか手のひらサイズ100gの質量が鉛のように重く感じられたけれど、私は取引を交わすように先を読み進めた。痛みを伴っても知りたかったことを知り、カタルシスを得るほうに賭けた。

 私の“読み”は何もかもが的中していた。言葉にできずにいた、私が“よく知るよくわからない感覚”について書かれていた。

 たとえば、「正しいセックス」への強い劣等感や人間とのセックスの難しさについて、ズーのひとりであるミヒャエルはこう語る。

“人間はひとりひとり、違ったフィルターを備えている。(中略)人間を理解しようと思うと、そのすべての背景を理解しないといけない。セックスするときでさえ、人間はそのフィルターを外さない。だから、セックスするときも相手のフィルターをつくっているすべてを受け入れたうえで、相手の心を読まないといけない”

 私のセックスはいつも常に「正解」を参照し、及第点を目指していた。

 たとえば、セックスをしないズーや、人間ともセックスをするズー、顔を舐められるなどの一般的には性的欲望と結びつかない行為に満たされるズーもいること。

 みいちゃんに指の腹を舐められるとき、それだけでエクスタシーにも似た痺れと震えが身体じゅうを走った。

 たとえば、一般的に「ペット」は家族(とりわけ子ども)のように扱われるが、ズーにとっての「パートナー」はそうではないことについて。

 思い返せば、母が私の家に滞在しているとき、台所に立っていた私に駆け寄って鳴いたみいちゃんに母が何の気なしに「今、お母さん(私)がご飯をくれるからね」と言ったとき、激昂してしまったことがある。母に悪気はもちろんなかっただろうし、私もなぜあんなに怒ってしまったのかわからなかったのだけれど、その頃からみいちゃんを「パートナー」だと思っていたのかもしれない。

 それ以外にも既視感のある感覚との邂逅を味わったが、とりわけハッとさせられたのは、濱野さんが「言葉を使わずにどのように触れてほしいか、あるいは触れてほしくないかを表現する方法を学ぶ」ワークショップに参加したときの描写だ。

 触られている側は目を閉じて、相手の手の動きを感じ取りながら言葉ではなく声だけでレスポンスし、触っている側は相手の声の調子から触っていいのかよくないのかを判断するのが基本ルールなのだが、そのときの濱野さんが抱いたという感覚に、私は身に覚えがあった。

“「いい、嫌だ、好き、嫌い」といった感覚が、なぜか私には起きにくかった。触るほうが簡単だった。彼の声音で触っていいかよくないかを聞き分けるのもそう難しくない。私は相手の気持ちを汲み取ることはできたが、自分の感覚を表現するのは苦手だった。”

“すると、右隣にいた男性が下半身を押しつけてきた。私はそのとき、明確に不快だと思った。にもかかわらず「嫌だ」と表現できず、男性がにじり寄ってくるのを拒否できなかった。”

「いい、嫌だ」がわかりにくい感覚、不快だと思っても嫌だと表現できない、あるいは言葉にできない感覚を知っている。記憶を辿ると、5年前の「ある出来事」を境に起きていたことを悟る。悟るとは言ったが、わかっていたはずだった。けれど、それまではどこか他人事のように思っていた。自分のことだと腑に落とせたのは、この本を読んだときが初めてだった。

 終盤で、濱野さんは自身が受けた性暴力についてこう振り返る。

“パーソナリティとは、関係性とともに揺らぎ、変化し、だからこそ味わわれ楽しまれるものだ。だが、性暴力によってつくられる役割は不変的で、暴力が繰り返されるたびに決定づけられる。「間違いなくおまえは、生きる価値がない人間だ」と。(中略)暴力には不思議なことに、何かを終わらせる力よりも何かを生む力があることを、私は体感的に知っている。(中略)憎しみ、怒り。そういった離れておきたい感情を暴力は次々に生み出して、人間を刺激する。そして暴力を受け続けると、自分のなかにもいずれ暴力性が芽生えていく。その矛先が誰に、あるいは何に向かうかは、人それぞれなのだろう。私の場合は、まっさきに自分自身に向かった。”

 錆びついた身体に穴が開けられて、鈍色の水が溢れ出すような感覚だった。痛かった。しかし、それは間違いなくカタルシスと呼んでいい種類の痛み。暴力を受けてボロボロになったくせに、自分の中に暴力性があることを許せなかった。走光性を持った蛾のようにネオンに寄っていっては撃たれ、今度こそと違う光に寄っていっては撃たれする自分を情けなく思い、ときに他人に対しても暴力を振るいたいという欲望を抱く自分を責めていたことを、このとき初めて自覚した。

 本書では性暴力を受けてから、ズーになったという人はひとりも登場しないことも付しておく。性暴力や過去のトラウマが動物への性愛に向かわせたのだ、という物語に安易に回収してほしくは絶対にない。

 また、ズーたちにとって、動物は動物でなければならず、人間の代替として動物を欲しているのではないことも強調しておきたい。

 私はズーかもしれないし、ズーではないかもしれない。いずれにしても、他の性暴力の本を読んでも、気持ちのやり場のなさに憎悪や自責が掻き立てられるばかりだった私が、私にとって恐らく「愛」に限りなく近い存在に出会えてからこの本を読めたことで、自分の過去に向き合うことができたのは確かだ。

 10年以上もの長い時間をかけた濱野さんの戦いに敬意を、旅の軌跡の一部を辿らせてくださったことに感謝を表したい。

 震える身体をしならせては起き上がり、私の頬に力強く頬ずりするみいちゃんを見つめると、得も言われぬ何かがせり上がり、涙になって頬を伝う。これは感情? どういう気持ち? あえて言葉で表現するとしたら、それは「生きている喜び」に近い。人間に触れられたときには感じることのなかった感情。彼女に触れられて「感じる」ことの、ただそれだけのことがどうしてこんなにうれしいのだろう。

 そんな私の疑問などお構いなしに彼女は頬の涙を舐める。薄くて平たい、ザラザラとした舌。身体がうち震える。私はより一層、嗚咽して泣く。なぜ泣いているのかもわからなくなったまま泣き続ける。

 私は彼女の名前を呼ぶ。

 みいちゃあん、みいちゃあん。

 御年13の、すっかり老女の風格を保ち、こてんと倒れて私に寄り添う彼女をそっと抱き寄せた。

 私は泣き続ける。子どもみたいに、声をあげて。

 もはや決壊しそうに震える自分の身体と彼女の体温を感じて、まるで世界の終わりみたいに。

文=佐々木ののか バナー写真=Atsutomo Hino 写真=Yukihiro Nakamura

【筆者プロフィール】
ささき・ののか
文筆家。「家族と性愛」をテーマとした、取材・エッセイなどの執筆をメインに映像の構成・ディレクションなどジャンルを越境した活動をしている。Twitter:@sasakinonoka