読書と受験勉強はまったく別もの。大人になってから読み始めてもいい!/「記憶力」と「思考力」を高める読書の技術⑤

文芸・カルチャー

公開日:2020/7/20

忙しい人でも簡単にできる、法律家のすごい読み方を伝授! 木山 泰嗣氏が仕事にも学びにも効く読書法を紹介します。読解力はもちろん、記憶力、思考力のすべてを鍛えることができる著者独自の手法が満載です。

『「記憶力」と「思考力」を高める読書の技術』(木山泰嗣/日本実業出版社)

4 受験勉強と読書の違い

大人になってから読み始めてもいい

 わたし自身、司法試験の受験時代はほとんど本を読む時間がなく、実際に本を読んだ記憶がありません。それは、司法試験受験のための予備校に通い始めた大学3年生の4月(ダブルスクールです)から大学卒業後の司法試験に合格するまでの約5年半の期間(司法試験を4回受験しました)に該当しますが、本を読む時間はまったくありませんでした。

 しかし、その期間は365日、法律書を読み、判例を読み、条文を読み、問題集を読み……というように、専門的な文章を読み続ける毎日でした。これは、読書でもリサーチ(仕事)でもなくて、資格試験のための勉強です。学生が学校の教科書を読んだり、家で参考書を読んで勉強したりする場合、それを人は読書とはいわないでしょう。

 このような観点でいえば、わたしは弁護士になるまで、ほとんど本を読むことがなかった、実際には読書をする時間がなかったということになります。しかし、その間、大量の文章は勉強のために読み続けていました。

 これに対して、わたしが大量に読書をするようになったのは弁護士になってからで、具体的には30歳を過ぎてからです。思い返してみれば、生まれたころから幼稚園、そして小学校低学年のころまでは毎晩、寝る前に母親が絵本を読んでくれており、幼少期は絵本が大好きでした。家にあった絵本の数はものすごい量だったと思います。

 時計の読み方も、幼稚園に通っていたときに、時計の読み方を教える絵本を読んで学びました。デジタル時計ではなく、アナログ時計ですね。あの長針と短針による時刻の読み方を、わたしは小学校に入る前の幼稚園時代に絵本でマスターしたのです。そのときの感動を、いまでもよく覚えています。

 また、わたしの小学校時代には「週刊少年ジャンプ」が大流行していましたから、とにかく漫画ばかり読んでいました。さらに、小学校3年生のころに任天堂のファミコン(ファミリーコンピュータ)が発売されて大ブームになりましたので、ゲームばかりやっていました。

 ここで、漫画とゲームについて詳しく述べることは、本書のテーマから外れるため控えますが、ものすごい量のファミコン用ゲームソフトをわたしは所有していましたし、ファミマガと呼ばれたファミコン用ゲームソフトの月刊誌も愛読していました。また、「週刊少年ジャンプ」を読み、さまざまな漫画をコミックスで買って読んでいました。

 そういう世代なので、いわゆる作家の人たちが小さいころから小説や文学を読み漁っていたというような状況ではまったくないのですが、手近な本には興味をもっており、江戸川乱歩の『怪人二十一面相』シリーズや『マガーク少年探偵団』など探偵物の児童書の翻訳本も全巻購入して読みました(当時発売されていたものに限りますが)。また、『ズッコケ3人組』シリーズも大好きで、当時発売されていたものは全シリーズ読みました。

 しかし、世界文学や夏目漱石などの小説を、小学校時代や中学校時代に読んだ記憶はありません。これらを小学生のころに図書館に通って読み漁る人が、わたしは読書家だと思っていました。

 よく、「子どものころに読書をしないと、大人になってからはもう無理だ」というようなことをいう人がいますが、わたしは30代になってから、ようやく本を読むようになりました。弁護士の仕事をしてかなり忙しかったのですが、それでも年間に400冊以上を読むことを10年程度続けました

 5年前に大学教員に転身して研究者として論文・判例を大量に読むようになり、また大学・大学院の授業や教育、学内行政で極めて多忙になってしまったため、いまは年間で100冊も読めなくなってしまいました。

 しかし、30代に大量に本を読み続けた経験により、わたしは「読書の魅力」を語れるようになったと自負しています。同時に、読み始めるのに遅いということは決してないと、これまで読書経験の少なかったあなたに対しても自信をもっていえます。

読書と受験勉強はまったく別もの

 わたしの場合、まず高校時代には夏休みに夏目漱石や太宰治などの有名な文豪の文学作品は文庫で読んだりしましたし、興味をもった思想書などを図書館で借りて読んだりもしていました。本をまったく読んでいなかったというわけではありませんが、どこの高校生でも読む程度の量でしかなかったのです。

 大学時代は時間がありましたので、面白そうな本は読んでいました。これも大した量ではなく、1年に10冊読むか読まないかくらいの読書量でした。ただ、大学時代は辻仁成の小説が好きでほとんど読みました(芥川賞を受賞されたときには、渋谷のパルコブックセンターに行き、サインをもらうほど愛読していました)。

 しかし、司法試験の勉強をはじめると、まったく読む時間がなくなります。司法試験の受験勉強で5年半を費やし、その後も司法修習で1年半を過ごし、その両者の間には半年あるため、大学3年生からの約7年半は、ほとんど本を読むことができませんでした。

 こうして長い受験勉強をしていた時代がわたしにはあるのですが、もしかしたら読者のあなたは、「十分に本を読んでいるではないか?」と思われたかもしれません。しかし、これまで述べたように、わたしが司法試験に合格して弁護士になるまでの読書量は、ごく普通の人程度か、それ以下でした。

 また、司法試験の受験で分厚い六法全書や法律書、さらには判例を読み込んでいたのだから、読書をしていたのと同じではないかと思われる人もいるかもしれませんが、それもまったく違います。なぜかといえば、受験勉強というのは、あくまで問題に答えるためのトレーニングだからです。それは、5W1Hでストーリーを追うような読書とはまったく違います。極めてシステマチックに論点や判例を細切れに法的に理解して整理して記憶することの繰り返しです。

 わたしが司法試験に合格してから、何よりまずいと思ったのは、文章を読むのがとても遅いことでした。仕事として大量の資料を読み込み、さまざまな事件を同時並行でこなす業務に携わることになったにもかかわらずです。読書体験が貧弱だったため、人より資料を読むのが極めて遅く、また理解をするのも時間が長くかかってしまう。これが、受験勉強でシステマチックに法的知識を記憶してきたわたしの当時のコンプレックスでした。

 司法修習時代に体験したことなのですが、100ページ近い「白表紙」と呼ばれる過去の裁判事件を加工した資料をボンと渡されて、午前10時から午後5時ごろまでにそれを読んだうえで、判決文や準備書面などの裁判の書類を起案(文書を作成)するのですが、わたしはそれを読むだけで大量の時間がかかってしまい、読み終わったら午後4時になっていました。残りの1時間で文書を書くことなどほとんどできませんでした。

 優秀な同期は、早く終わって午後3時過ぎくらいには教室を出てしまうのです。しかも、その同期は早く終えているのにもかかわらず、優秀起案で、指導教官からほめられたり、評価されたりしていました。わたしはというと、毎回、評価が悪かった下位5%くらいの人に貼られる「付箋」が提出した起案に貼られて返却されてきました。つまり、70人くらいのクラスで底辺の成績だったということです。その原因は、読書体験のなさに起因する「文章読解の遅さ」でした。

 そして、遅いだけでなく、ゆっくり読んでも内容を正確に把握することができないという状態でした。そんな状態だったため、わたしは弁護士としてやっていけるのか、とても不安な毎日を過ごしていました。それは、弁護士になってからも、特になり立ての新人のころに、なかなか消えないコンプレックスだったのです。

 少しわたしの過去の話が長くなりましたが、このように司法試験レベルの受験勉強ですら、読書といえるレベルのものにはならないということです。

<第6回に続く>