「いい嫁と思われたい…」 “ほめられること”に依存すると幸せになれないのはなぜ?/あきらめよう、あきらめよう⑦
公開日:2020/7/29
あきらめよう、あきらめよう。そうすれば、どんなときも幸せは見つかります。この困難な時代をしなやかに生きるヒントを語った、シスター鈴木秀子、渾身のメッセージです。さあ、一緒に聖なるあきらめのレッスンをしていきましょう。
「ほめられること」をあきらめる
40代女性のSさんが、胸中を明かしてくれました。
「私たち夫婦には小さな子どもが二人いまして、すぐに家中が散らかります。毎日、掃除をしてばかりです。夫は『散らかったままでいいよ』と気にせず、まったく手伝ってくれません。でも、近くに住む姑さんが時々遊びにくるので、片付けないといけないのです。『子どもの面倒を見て、家事もしっかりできるいいお嫁さん』だと、姑さんに思われたいのです」
Sさんの「『いい嫁』と人に思われたい」気持ちはよくわかります。でも、これは本当の幸せといえるのでしょうか。
家族の喜びがあっても、姑さんの評価がなければ幸せだと思っていないのです。このまま一生、姑さんの目をずっと気にし続けなければいけなくなります。Sさん自身は幸せなのでしょうか。
もちろん、そのおかげで家中がきれいなのはいいことです。でも、仕事で疲れているご主人に掃除の手伝いを強要したり、ものを散らかすわが子を叱りつけたり……、家族は幸せなのでしょうか。
もちろん、「掃除をやめなさい」と言うつもりはありません。考え方を変えるだけでいいのです。「家はスッキリときれいにしておいたほうが、家族も姑さんもそして私自身も気持ちのいい時間を過ごせるから、きれいにしておこう」と。
姑さんからの評価ではなく、自分や家族の幸せを目指すわけです。何をもって幸せとするのかをはっきりさせるこの作業こそ明らめることなのです。
そして、ここでもっとも諦めるべき執着は、「ほめられたい」という気持ち。
「認められたい」「ほめられたい」という執着は、どんな人にでも死ぬまであります。でもその執着にこだわりすぎると、いつしか「ほめられること」や「認められること」に依存するようになり、自分自身の本当の気持ちを殺すことになってしまいます。
誰だって、一度ほめられれば「もっとほめられたい」と願うようになります。つまり、「ほめられること」には中毒性があるのです。それが行動の原動力になることがあります。でも、ほめられなかったときの落胆は大きなものになり、不幸の引き金となってしまいます。
姑さんへのおもてなしが、自分の中でたとえ30%しかできなかったとしても、「一生懸命やったから、これでいい」と思えるようになりましょう。それが聖なるあきらめです。自分を責めたり、「なぜ30%しかできなかったのか」と葛藤していると、苦しくなるばかりです。
聖なるあきらめを通して自分の内面を整える。すると、きっとSさんの心には平安が訪れ、笑顔が戻ってくるはずです。その輝くような笑顔は、子どもさんやご主人の心まできっと明るくすることでしょう。