「動物を殺して食べるのは可哀想だからやめるべき」なのか? 肉食を人間の義務とする“倫理的な”理由【読書日記25冊目】

文芸・カルチャー

公開日:2020/8/3

2020年7月某日

 チクリと明白な痛みを感じて、パチンと蚊を叩き落とした。

 すでに吸っていたのであろう私の血と、散り散りになった黒い線が腕にこびりついていた。蚊の命と、壮大な物語のように語られる人の人生。文字通り虫も殺さぬ人でない限り、「どんな命も平等だ」なんて胸を張って言えるだろうか。言えたとしても、それは美しい自分でいたいがための保身なのではなかろうか。

 ベッドに目をやると、猫のみいちゃんは枕の上で気持ちよさそうに眠っている。みいちゃんは食べてしまいたいくらいにかわいい。ときどき本当に、背中の肉を吸ったり、足の先を咥えては軽く噛んだりする。あたたかい足の先を咥えていると、昔絞めた鶏のことを思い出す。

佐々木ののかの読書日記

 数年前、狩猟に興味があり、知人のツテで猟の見学をさせてもらったことがある。ズドーン、ズドーン、と低く響き渡る銃声は腹を射抜くようで、撃ち抜かれるクマを思った。結果、その日は獲物を捕れなかったため、猟友会で飼っている鶏を絞めて食べることになった。

「何か手伝いはありますか?」

 そう聞くと、あぁじゃあ首を落としやすくするためによくひねっておいて、と猟師さん。腕の中には生きた鶏がパタパタと動いていて、コッ、コッ、コッ、コッ、と鳴き、猟師さんが首に手をかけるとパキッという音がして、死んだ。

 動かなくなったから、たぶん死んだ。
 死んだの? さっきまで生きていたのに?

 呆然とする私に、よろしくね、と鶏を預けて猟師さんは湯を沸かしに行った。事態がよく飲み込めないまま、言われたとおりに鶏の首をひねる。プチプチという繊維が切れていく感触に腕の毛が逆立った。

 それは見知った人の死以上に、「死」だった。葬式で触れてきた死がどこか形式的で、さほど実感もないまま時間に溶かされて現実になっていくものだとしたら、鶏の死はゼロ距離の密度で私に迫ってくる。

 そして、十分に繊維を切り尽くした鶏は大きな釜で茹でられ、頭を切り落とされ、身を削がれて、私にも分け与えられた。すっかり肉になってしまった鶏を前に臆していた私に「殺しちゃったんだから、せめてうまそうに食べなよ」と猟師さんは笑う。

 泣きそうになりながら鶏をおそるおそる口にしてみると、うまかった。尋常でないおいしさに対してか、状況を飲み込めぬ混乱からか、私は泣いた。泣きながら夢中で鶏を喰らった。毎日のように肉を食べているのに、喉から胃にかけてずっしりとした重みが感じられた。

 私は植物ではない。

 光を栄養に変えて世界と調和できない以上、今までも、これからも、他の生命を犠牲にして生きなければならないのだという事実を、食事のたびに思い出す。しかし、そんな事実を前にしても、「動物が可哀想だから」という理由で肉を拒否するベジタリアンについては、違和感を漠然と抱いていた。

 だから、私が『肉食の哲学』(左右社)を手に取ったのも必然だったかもしれない。美しい深紅の装丁の帯にはこう書かれている。

――肉食は我々の義務である。ビーガンの心がけは立派だ。だがその道は地獄に続いている。

肉食の哲学
『肉食の哲学』(ドミニク・レステル:著、大辻都:訳/左右社)

 パリにある高等師範学校の教授であるドミニク・レステル氏による本書は、マニフェストの色合いが強く、重厚な本のつくりに反して、一般向けに書かれたコンパクトなエッセイになっている。

 本書は帯に書かれているようにビーガンへの反論の書だが、ビーガンの中でも特に、体質や嗜好ではなく「動物を殺して食べるのは倫理に反する」という“倫理的ベジタリアン”に対する反論の書であることが読み進めるうちにわかってくる。

 まえがきから最終章に至るまで、ときに辛辣とも思えるような痛快な語り口で、倫理的ベジタリアンへの抗議の根拠が次々と展開される。

 動物を殺して食べるのが倫理に反すると言えるなら、どうして植物を殺して食べるのは倫理に反さないのか。

 牛を殺すのはダメで、蚊やゴキブリを殺すことを咎めないのはなぜか。

 ヒト以外の捕食動物に殺されて食われる動物がいる中で、どうしてヒトだけが動物を殺して食べてはいけないのか。

 あらゆる動物にとっての利益はむしろ「殺されないこと」ではなく、最大限に繁殖することではないのか。

 こうした反論から浮かび上がるのは、倫理的ベジタリアンの中にはっきりと存在する「生物のヒエラルキーの序列」である。

 彼らの考えによれば、植物よりも動物が上で、虫よりも牛が上であるだけでなく、あらゆる動物のヒエラルキーの中で、人間が最上位に立つということを意味する。なぜなら捕食関係によって成り立ってきたエコシステムにヒトだけが関与しない道を選ぶことは、ヒトだけが特別な動物だと言っているに等しいからだ。

 それはありのままの自然――肉を食すヒト自身と動物――を憎んでいることとも同義である。ベジタリアンの動物憎悪について、著者はこんな風に喩えている。

「ベジタリアンの動物憎悪は倒錯したかたちをとる。この憎しみを自分が動物に抱く愛によって正当化しているからである。ベジタリアンとは、虐待する母親と同じ意味での虐待する動物である。その誤った愛は、愛していると主張するものの死あるいは虚勢を望み、無害で頼りないぬいぐるみへと取り換えたいのだ」

 倫理的理由から肉食を拒絶するベジタリアンは、自分の動物性(≒加害性)を否定したいだけなのではないか。それは自分の生き物としての性から目を背けているだけでなく、彼らが自らの動物性を否定すればするほど、生きること自体を「醜く血にまみれ、嫌悪と悪臭に満ち、不正で残酷なものだ」と非難することに繋がる。

「動物を食す代わりに可愛がることで動物との親密なつながりを築くことができる」というベジタリアン側からの反論には、伴侶となる動物と暮らすことが簡単には一般化できないことや、そもそも肉食の是非を問うことは「ヒトにとって他の動物と分かち合うべきことの意味は何かを知ること」であり、「いかに生活を分かち合うか」ではないと応じている。

「動物に優しくすることよりも、自分の根源的動物性を明示し、これを全的に引き受けるということが問題なのだ。つまり動物を可愛がり、同時にこれを食うことは可能である」

 ようするに、猫を可愛がりながら、牛や豚を食すことは可能であるということだ。これを読んで、私は内心ホッとした。

 とはいえ、著者は“倫理的ベジタリアン”を批判するだけでなく、自然や動物を全く顧みずに肉食を謳歌する“チンピラ肉食者”も非難しており、私たちは“倫理的な肉食者”になるべきと結んでいる。

 工業的畜産は肉食を習慣に堕し、出所不明な肉を無反省かつ過剰に摂取することによって、環境破壊をも引き起こしている。この事実を著者は深刻に捉え、「肉食の抑制と儀礼化」を模索することを提案する。問題は動物を食すことではなく、過剰に食すことであるのだ。

 加えて、動物を食すのと同じように、私たちの身体もまた、他の動物に食われることを良しとすべきだとも著者は言う。一見ショッキングな考えかもしれないが、死体をバクテリアに分解させることもまた、動物に食われることと同義だと考えれば受け入れやすく、現代の火葬を「遺骸の窃盗」とみなすことも可能だと著者は話す。

「動物を自身のなかに迎え入れ、動物を自身とし、自分も動物であることを真に引き受ける方法だ」という著者の視点に立てば、人工肉も「悪」となる。なぜなら、人工肉とは「細胞の寄せ集め」であり、「かつて生きていた動物」ではないからだ。

 さらに、人工肉を賞賛することは、ヒトの食の運命を自然ではなく、スタートアップ企業と、その延長線上にある多国籍企業、さらには資本主義に明け渡すことだとして強く批判している。

 ときにラディカルにも思えるほどの徹底した論には、ヒトと自然をフラットに捉えようとする著者の真摯さが感じられた。肉食者の手放しの擁護だと思って読むと、頭を殴られるような衝撃を覚える人がいてもおかしくない。

 実際に、私が日々口にしている安価な肉もほぼ間違いなく、工業的畜産によって大量生産されたものだろう。動物を食すことは悪でないとしても、効率化を図るために負荷をかけて飼育された事実を賞賛することはできない。

 今すぐに世のシステムを変えることもできない。

 今すぐにできることといえば、ヒトである自分も他の生き物のただなかにある動物であること、他の生き物から害されること、他の生き物なくしては自分が存在しないことを認めることではなかろうか。

 そんなことを考えながら、あの日の鶏を、腕の上の蚊を、膝の上のみいちゃんを想った。

文=佐々木ののか バナー写真=Atsutomo Hino 写真=Yukihiro Nakamura

【筆者プロフィール】
ささき・ののか
文筆家。「家族と性愛」をテーマとした、取材・エッセイなどの執筆をメインに映像の構成・ディレクションなどジャンルを越境した活動をしている。6/25に初の著書『愛と家族を探して』(亜紀書房)を上梓した。
Twitter:@sasakinonoka