二人が裸で抱き合う姿を想像するヤマト。ふとした瞬間に柔らかい唇の感覚がよみがえり…/アスク・ミー・ホワイ⑤

文芸・カルチャー

公開日:2020/10/29

アスク・ミー・ホワイ

著:
出版社:
マガジンハウス
発売日:

写真週刊誌のスキャンダル報道によって芸能界から姿を消した元俳優・港颯真。冴えない毎日を送る一般人・ヤマト。アムステルダムの地で偶然出会った二人の関係は、交流を重ねるうちに変化していく――。辛口社会学者・古市憲寿氏が描く、ロマンチックBLストーリーをお送りします。

アスク・ミー・ホワイ
『アスク・ミー・ホワイ』(古市憲寿/マガジンハウス)

3月1日

 iPhoneの目覚ましアラームが鳴る前に起きてしまった。窓の外はまだ薄暗いが雪は降っていないようだ。5畳に満たない個室には荷物が溢れていて、最近ではマットレスの上にまでパソコンや雑誌を置き始めている。床には乱雑に服や書類が積み上げられていて、足の踏み場もない。白い壁は薄汚れているし、照明もIKEAで買ってきた20ユーロのペンダントランプだ。家具らしい家具のないこの部屋だけを写真で見たら、誰も僕がオランダに住んでいるとは信じないだろう。しかし、もともとストレージだった部屋を300ユーロという格安で借りているのだから文句は言えない。

 この狭い現実を目の前にすると、昨晩自分の身に起こったことが俄には信じられない。僕は、あの港くんにキスをされてしまった。考えれば考えるほど、あの瞬間が夢のようによみがえってきた。iPhoneをバッテリーから外し、昨日から何度も読んだはずのWikipediaに再び目を通す。

港颯真(みなとそうま、10月17日生まれ)は日本の元俳優。神奈川県藤沢市出身。『仮面ライダー』シリーズでデビュー、『アマチュア』や『サードプレイス』など数多くのドラマや映画に出演し人気を博すものの、週刊誌報道をきっかけに芸能界を引退

 僕は芸能界にそれほど詳しいほうではないけれど、港くんの名前は当然のように知っていた。高校生の頃に観ていたドラマには何作も彼が出演していたし、日本にいたときはテレビCMでもよく見かけた。パソコンだかスマート家電だかの広告キャラクターになっていたから、職場で見たことがあるのかも知れない。

 だからあのニュースにはひどく驚いた。すでに僕はアムステルダムに住んでいたのだが、ネットニュースでは連日のように彼の名前が報じられていた。

 しかし事件の真相追求が行われる前に、港くんは電撃的に芸能界の引退を発表してしまう。引退会見さえ開かれず、疑惑自体も曖昧なままだった。しかし、森友学園や加計学園といった政治ニュース、松居一代の離婚騒動などにかき消される形で、世間はあっさりと港くんのことを忘れてしまったようだった。

 僕も同じだ。引っ越しをしたり、仕事先を探したり、日々の暮らしや新しいニュースに出会う中で、港くんのことなんてすっかり忘れていた。

 あれは二ヶ月ほど前のことだ。僕の働く日本料理店オリガミがインスタグラムを始めるというので、参考になりそうなアカウントを探していた。「#Amsterdam」や「#JapaneseRestaurant」といったハッシュタグをたどっていたとき、たまたま見つけたのが港くんの写真だったのだ。

 はじめはただのアムステルダムの写真に対して、異様な数の「like」がついている理由がわからなかったのだが、プロフィール写真を見てようやく港くんの存在を思い出した。検索してみると、約半年間も世間から全く姿を消していた彼が、秋からインスタグラムを開設したことが小さなネットニュースになっていた。

 ハッシュタグや背景を見る限り、彼はヨーロッパの街を転々と移動しているらしい。「#Amsterdam」と書かれた投稿は一点しかなかったので、引っ越してきたかまでの確信は持てなかった。

 アムステルダムは人口八十万人を越える街だが、日系コミュニティは決して大きくない。もちろん全員が顔見知りというわけではないが、ちょっとした事件や出来事はすぐに拡散されてしまう。有名人が引っ越してきたらしいという噂はたまに流れるものの、誰かがはっきりと港くんという名前を出しているのは聞いたことがない。

 その彼にあのような形で対面することになるなんて。

 あの事件のとき、港くんがゲイという噂はネットにも載っていた。そもそも問題となった写真を売ったのが、港くんの彼氏だったという話もある。痴情のもつれがスキャンダルにつながったというのだ。

 全ては憶測に過ぎなかったが、少なくとも港くんがゲイアプリに登録していたことは間違いない。昨日の夜、コーヘイは港くんとセックスをしたのだろうか。

 Facebookには、コーヘイからのメッセージはなかった。確認するとオンラインになったのは十時間前だ。もしかしたら二人はまだ一緒にいるのかも知れない。何かメッセージを送ろうとも思ったが、無粋だと思ってやめた。正確に言えば、興味は大いにあったけれど、どのような言葉を打てばいいのか全く思いつかなかった。

 iPhoneから目覚まし代わりのアラームが鳴り始める。朝6時。今日は早番だったから、6時45分までに出勤しなければならない。結局昨日は料理をするどころではなかった。冷蔵庫からアボカドとツナ缶を出して、わさびと和える。そこに残りもののレモンをかければ一品のできあがりだ。さすがにこれだけでは寂しかったので、豆腐を取り出して、バターをのせ、醬油をかけて電子レンジで温める。

 その間に共用のネスプレッソでコーヒーを淹れて、素早く飲み干す。カフェインの苦みが扁桃腺を刺激する。その感覚が不思議と昨日のキスを思い出させた。あの柔らかい唇までがよみがえりそうになる。何となく気まずくて、蛇口をひねり、冷たい水道水で口をゆすいでいると、シェアメイトのオーレが声をかけてきた。

「なんだか嬉しそうだね。女でも見つかったか?」

「全然。昨日、男友だちが来てただけだよ」

「ついに男に目覚めたか?」

 オーレは馴れ馴れしく僕の肩を抱いてくる。南米出身のせいか、やけにボディタッチが多い。僕はやんわりと彼の腕をどけると、俯きながら応えた。

「そのボーイフレンドじゃないよ」

「ボーイフレンド」と発音した瞬間、港くんとコーヘイが裸で抱き合っている姿を想像してしまい、不思議な気分になる。同性愛に差別意識なんてないはずなのに、見知った友人となれば話は変わってくる。興味本位で詳しく事情を知りたくなる一方、コーヘイの裸姿なんて思い浮かべたくない。

 その日の仕事は散々だった。幾度となく港くんやコーヘイのことを考えてしまい、調理でも接客でもいつも以上にミスを繰り返してしまう。頭の中では安っぽいCGのような二人が何度も裸で抱き合っていた。

「ヤマトくん、本当にとろいよね。よく海外で働こうと思ったなあ。ぶっちゃけ、代わりの日本人なんていくらでもいるんだから」

 店長のメグロさんが、いつものように嫌みったらしく説教してくる。

 マスクもせずに話し続ける彼の唾液が、何度も豚汁に入るのを目撃したが、もちろん何も指摘しなかった。

 店長とはいえ、メグロさんも雇われの身であることに変わりない。噂では売れない小説家だったが、日本ではにっちもさっちもいかなくなって、オランダへの移住を決めたらしい。こんな吹きだまりしか集まらないような職場だからこそ、嫌がらせもあれば、いじめもある。僕の前に勤めていた日本人の女の子はロッカーの中身を勝手に捨てられたこともあったという。

 それでもサービス残業とは無縁の生活を送れることはありがたかった。今日も早番だったため、15時には店を出ることができた。

 そわそわしながらロッカーの中からiPhoneを取り出してみたものの、コーヘイから何の連絡も入っていない。本当は自分から連絡したかったが、他人から根掘り葉掘り聞かれることのうざったさは十分に承知している。サクラと別れた後は、共通の知人から何度、興味本位に満ちた醜悪な質問を浴びせられたかわからない。

<第6回に続く>

この記事で紹介した書籍ほか

アスク・ミー・ホワイ

著:
出版社:
マガジンハウス
発売日:
ISBN:
9784838731114