信じられない。今自分に笑顔で話し掛けているのが、有名な元芸能人だなんて/アスク・ミー・ホワイ⑦

文芸・カルチャー

公開日:2020/10/31

写真週刊誌のスキャンダル報道によって芸能界から姿を消した元俳優・港颯真。冴えない毎日を送る一般人・ヤマト。アムステルダムの地で偶然出会った二人の関係は、交流を重ねるうちに変化していく――。辛口社会学者・古市憲寿氏が描く、ロマンチックBLストーリーをお送りします。

アスク・ミー・ホワイ
『アスク・ミー・ホワイ』(古市憲寿/マガジンハウス)

「ヤマトくん、アムスに住んでどれくらい?」

「三年くらいです」

「いい街だね。初めは世界を転々としようと思ったんだけど、居心地の良さにびっくりしちゃった。だからちょっと長く住むのも悪くないと思ったんだ。そんな話を昨日、君の友だちとしてたら、ヤマトくんが詳しいっていうから」

 そこまで一気に話した後、港くんは急に僕のほうを向く。感情が読みにくい顔だと思った。微笑んでいるのに悲しんでいるようにも見えるし、僕を馬鹿にしているようにも見える。

「そもそも俺のこと知ってる?」

「港颯真さん、ですよね?」

 知っているも何も、今日は朝から何度もWikipediaを読み返していたし、インスタグラムのリロードも繰り返していた。

 しかしそれを伝えると気持ち悪く思われそうで、彼がアムステルダムにいるらしいというネットニュースを読んだことだけ伝えた。

「そっか、じゃあ週刊誌で書かれたことも知ってるよね?」

「はい、何となく」

「めちゃくちゃ大変だったんだよ。写真が出ただけだから、しらばっくれることもできたんだけど、もう疲れちゃってさ」

 港くんは、フィリピンのセブ島や、スリランカなどアジアのリゾート地を転々とした後、一月の半ばにヨーロッパへ来たらしい。欧州の多くが加盟するシェンゲン協定が適用される国では、観光目的の場合九十日までの滞在ならビザは不要だ。港くんの場合、四月半ばまでは何の届け出もなく、アムステルダムに滞在できる。

「もしアムステルダムに住みたいなら、フリーランスビザがいいと思いますよ。日本人は取得が難しくないし、僕も一度申請したことがあるから、きっと助けられるし」

 フリーランスビザの取得には、日本で戸籍謄本と、外務省による承認印を得る必要があるものの、港くんならば代理で取得してくれる友人がいくらでもいるだろう。書類をそろえ、こちらのしかるべき機関に提出すれば、少なくとも一時ビザは入手できると思う。週刊誌報道のことが気になったが、犯罪としては立件されていないのだから、大した問題ではないはずだ。

「急に会ったばっかりなのにごめんね。助かる。最近できた友だち、EU市民のやつらばかりで、ビザのこととかわからないっていうから」

 僕は日本から取り寄せるべき資料をホテルの部屋に備え付けのメモ用紙に書き、ビザ取得までの流れと、並行してホテル以外の居住地を探す必要があることを説明した。

 とにかく節約をしたかった僕は不動産探しにも苦労したが、お金のある港くんなら選択肢はいくらでもあるだろう。割高だが、日本人向けの不動産屋を使ってもいい。僕が話すことに、いちいち港くんは大きく頷き、三十分もしないうちにアムステルダムで居住するために必要なことは伝え切ってしまった。

 ソファを立って帰ろうとすると、港くんからこの後の予定を聞かれる。もちろん、予定なんて何もない。

「飯、行かない? 俺さ、毎日Uber Eatsとルームサービスばっかりで飽きちゃった。おいしい店あったら教えてよ。もちろん、おごるから」

 港くんは真っ白に生え揃った歯を出して笑う。日本と違ってレストランが高いアムステルダムで、僕はあまり外食をしたことがない。自分の勤める店に誘おうとも考えたが、噂好きの日本人スタッフの好奇の目に、港くんをさらしたくない。

「この部屋、キッチンがあるって言いましたよね。よかったら僕が何か作りましょうか。こう見えて、日本料理屋で働いているんで、一般的なものなら作れますよ。すぐそばにアルバートハインがあるから、ちゃちゃっと買ってきちゃいます」

 ここまで提案して、自分が気持ちの悪いことを言っているのではないかと自己嫌悪に襲われる。ただの一般人が芸能人相手に何を言っているのだろう。

「まじで? 手料理、食べるのなんてすごく久しぶりだ。ヤマトくんに会えてよかったな。いや、そういう意味じゃないから怖がらないでね。ただ嬉しくてさ。俺も一緒にスーパー連れて行ってよ」

 港くんは服の山を倒して、派手なバーバリーチェックのダウンコートを取り出す。そのせいで他の服が散らばってしまったが、彼はまるで気にしない。あまり整理整頓が得意な人ではないようだ。

「本当は気の利いたレストランでも紹介できたらよかったんですけど。今度、友だちに聞いておきます。確か社会問題をテーマにした料理を出してくれるレストランが流行ってるって同僚が言ってたような」

「アムスっぽい。いいね、今度そこ行こうよ。Rumbleとかで、こっちの知り合いは増えたんだけど、友だちが偏ってるんだよ、俺。色々教えてね」

 黒塗りのエレベーターを二人で降りながら、港くんはどこかサクラに似ていることに気が付いた。こっちの意図を汲みながら、自分でどんどん話をリードしてくれる。だけど全く偉ぶることはないし、相手に緊張感も与えない。だから僕自身も構えずに話すことができる。

 ホテルのロビーを出ると、雪はもう止んでいるようだった。午後6時だというのに、すっかりと日は落ちて、街は暗闇に包まれている。気温はまだ氷点下だろうが、昨日よりはだいぶマシだ。雪が凍りかかったアイスバーンの道を二人で歩いて行く。

「たぶんアルバートハインが一番有名なスーパーです。品質もそこそこで、日曜日も営業を始めたり、便利なんですよね。ただクレジットカードを受け付けてなくて、現金かバンクカードで払わないといけないのは旅行者には不便かも。本当はマルクトっていうオーガニックスーパーが一番品物はいいんですけど、ここからじゃちょっと歩く距離ですね。ユンボはベジタリアン向けの食材が多くて、ディルクは安い分、あまりよくないものも多いけど、クロワッサンだけはおいしいと思います」

 話しすぎかと心配したが、港くんは大きく相槌を打ちながら、iPhoneでメモを取ってくれているようだった。

「ユンボってこのあたりだとどこにある?」

 港くんに聞かれたのでポケットからiPhoneを出して調べようとしたら、足を滑らせて転びそうになってしまった。すぐに港くんが気が付いて、腕を摑んでくれたので、尻餅をつかずに済んだ。

 小柄で痩せた人なのに、思ったよりもずっと腕力があったことに驚く。

「ありがとう」と伝える前に、港くんは何事もなかったようにアムステルダムの生活情報を聞いてくる。

 アルバートハインに着いてからも、僕は自分でも不安になるくらい話したと思う。日本と違ってジャガイモの種類がとにかく多いこと。ダイコンがなかなか見つからないこと。肉を買うときは賞味期限だけではなく、きちんと状態を見極めるべきこと。ムール貝のパックが使いやすくておいしいこと。日本式のカレーライスを食べたくなったら、香港スーパーストアという店に行けばいいこと。

 その間もカートにどんどん食材を入れていく。僕が何となく作ろうと思っているメニューに必要な野菜や調味料を選び、港くんはシャンパンやチーズをいくつも買い込んでいく。お酒が高かったのか、515ユーロにもなった会計は、港くんが払った。猫が刺繡されたグッチの財布にはユーロ紙幣が無造作に何十枚も入っているようだった。

<第8回に続く>