「怪我してない?」急に抱きしめられ――鼓動が速いのは緊張してるせい? それとも…/アスク・ミー・ホワイ⑫

文芸・カルチャー

公開日:2020/11/5

写真週刊誌のスキャンダル報道によって芸能界から姿を消した元俳優・港颯真。冴えない毎日を送る一般人・ヤマト。アムステルダムの地で偶然出会った二人の関係は、交流を重ねるうちに変化していく――。辛口社会学者・古市憲寿氏が描く、ロマンチックBLストーリーをお送りします。

アスク・ミー・ホワイ
『アスク・ミー・ホワイ』(古市憲寿/マガジンハウス)

 彼にとっては初めて来る街のはずなのに、なぜか目的地を知っているかのように迷わず歩いて行く。二ブロックほど進んだところに、運河に面したベンチを見つけたので二人で腰掛ける。トートバッグの中からサンドウィッチを出して港くんに渡す。気温はまだ10度に届いていないだろうが、コートを着たままなのでそれほど寒くない。

「君、できる子だね。さっきガソリンスタンドで買ったパンよりよっぽどおいしいや」

「そんなこと言ってくれるの、港くんだけですよ。付き合ってた彼女からは、いつも気が利かないとか鈍臭いって、怒られてばっかりだったから。私がいつも決めてばっかりじゃない、って」

「へえ、サクラちゃんだっけ。そうやって彼氏に文句を言いたい子だったんじゃないの。愛情表現は人それぞれだから」

 港くんがサンドウィッチを頰張りながら、僕のほうを向く。僕は「わからないです」と首を振った。サクラとの間に何かの誤解があったのはその通りかも知れない。だけど最後に裏切ったのは彼女に他ならない。

「俺も、一度だけ女の子と付き合ったことがあるんだけどさ。中三のとき。隣の席になったのがきっかけですごく仲良くなったの。二人とも帰宅部だったから、下校はいつも一緒だったし、週末にはよく映画館に行った。周りからは付き合ってるんでしょって冷やかされてたけど、俺にはその気なんてなかったから、笑っていられたんだけど、彼女は違ったんだよね。それでいつもみたいに学校の帰り道に、真面目な顔して告白されたの。今から思えば恋愛感情は全くなかったって断言できるんだけど、当時は大した経験もないでしょ。だからまず付き合ってみようと思ってさ。手探りでキスして、手探りでセックスをしたんだけど、俺はずっと何か違うってわかってた。結局、彼女にも伝わっちゃったのかな。卒業して、バラバラの高校に行くタイミングで別れた」

 水筒から紅茶を注ぐ。予備のカップを忘れてきてしまったため、二人で回し飲みをした。学生時代にした男同士のそれと全く変わりがないはずなのに、飲み口に触れるとき、一瞬だけ緊張してしまった。

「話はここからなんだよ。高三のとき、デビューする直前かな。レッスンに通う電車の中で偶然彼女に会ってさ。いかにも体育会系みたいなマッチョの彼氏を連れてたの。そのときには俺も自分のセクシュアリティのこと、完全に気付いてた。なのに、その子の彼氏に嫉妬しちゃったんだよね。それで俺、自分勝手だけどすごく安心したの。よかった、嫉妬するくらいには、彼女のことを好きだったって。だから、ヤマトも元カノのことも、自分のことも許せる日が来ると思うよ。事実は変わらなくても、解釈でいくらでも事実を上塗りしていくことはできるはずだからさ。過去はね、変えられるはずなんだよ。もしかしたら、未来よりもずっと簡単に」

 途中から港くんは、自分自身に言い聞かせるような口調になっていた。彼が裏切られたと信じている俳優の友人との間に起こった事件。芸能界を離れなくてはならなかった一連の顚末。都合のいい解釈が早く見つかればいいと思った。僕にもサクラに対する怒りが消える日は来るのだろうか。

「その電車の中では、彼女に話しかけたんですか?」

「俺も若かったんだよね。何を考えたか、二人に歩み寄っていって、そのとき好きだった男の写真を見せて、今の彼氏なんだって言ってやった。俺なりの幕引きのつもりだったんだろうけど、彼女は笑いながら『よかったね。おめでとう』って。それ以来、たまにメールのやり取りをしてるよ」

 二人ともサンドウィッチを食べ終わってしまったが、何となく動き出さずにベンチに座ったままでいる。運河には小さな蓮の葉がぎっしり浮かんでいて、水面がほとんど見えない。夏になれば花もきれいに咲き乱れるのだろう。

「知ってる? 蓮の葉って浮力がすごいから人間が乗っても沈まないんだよ」

 怪訝な表情で港くんのほうを見ると、思いのほか真面目な顔をしていた。

「モネの睡蓮って絵があるでしょ。あれも決して沈まない人間の歴史を表現しているらしいよ。オルセーに行くと一時間以上観ちゃうくらい好きなんだよ、あれ」

 港くんの意図を図りかねて、「本当ですか」と笑いながら足を一歩運河のほうへ踏み出してみる。地面から水面までは20センチ程度しかない。

 恐る恐る右足のスニーカーの先端で蓮の葉をつついてみる。すると想像した以上に確かな感触があった。港くんが言った通り、蓮の上は歩けるものかも知れない。こんなに彼が大真面目に断言するのだから、試してみよう。

 思い切って右足を蓮の上にのせたのと、僕の左手を港くんが摑んでくれたのは、ほぼ同じタイミングだった。

 沈んでいく右足のスニーカーには、じっとりと水が入り込んでくる。春といってもまだひやりとする冷たさだ。だけど港くんが左手だけではなく、上半身も抱き留めてくれたから、何とか僕はそれ以上沈まないんで済んだ。

「ごめん、まさか信じるとは思わなかった」

 港くんに抱かれた姿勢のまま、僕は地面に座り込んでしまう。ようやく状況が飲み込めた僕は、何度も瞬きをする。

「噓だったんですか」

 そう言うと港くんは楽しそうに笑い出した。いつもは他人に無関心なオランダの人々も僕らを覗き込んでくる。男二人が運河沿いに抱き合ったまま座っている。しかも一人の右足は濡れている。確かに滑稽な光景だろう。

「まさかそんな理由のない噓をつかれるとは思わなかった」

 港くんは何がそんなに面白いのかというくらいずっと大笑いをしている。だけどあまりにも無邪気に笑うものだから、馬鹿にされているとは思わなかった。彼はまだ僕を抱きしめてくれている。

 港くんのミカンと桃の香りに、あの事故のようなキスを思い出してしまう。唇の感触までよみがえりそうになって、必死に別のことを考えようとする。

 すると今度は港くんの体温が、服を通じてじわじわと伝わってきているのに気付いてしまう。濡れた足先が冷たくて、余計にそう感じたのかも知れない。緊張のせいか、心臓の鼓動が速くなってしまいそうだ。

 何だかばつが悪くなって、僕は一人で立ち上がる。

「俺、オランダに来てこんなに笑ったの初めてかも。濡れたの右足だけ? 怪我してない? 本当にごめんね」

 後から立ち上がった港くんは、今度はしゃがんで僕の足元を心配してくれる。もちろんにやにやしたままだ。靴下までびっしょり濡れているのがわかった。一体何がそんなに面白いのかはさっぱりわからなかったが、つられて僕も笑ってしまう。通りすがりの黒人が僕らのことを「ニンジャ」と笑った。確かに蓮の上を歩けるのは忍者くらいかも知れない。まず右足を出し、左足で踏ん張る前に右足を出す。そうすれば空中でも水上でもどんな場所でも歩けると、子どもの頃に読んだ本に書いてあった。

 グーグルマップで検索した近くのディンマーというアパレルショップに向かうことになった。歩いているうちに服は乾き始めていたので、着替えは必要ないと言ったが、港くんは真剣に服を選んでくれる。大した種類の服はなかったが、デニムと靴下、靴を買ってくれた。僕は試着室で着替えて、濡れた服を袋に入れてもらう。

 僕には大きすぎるサイズのデニムだったが、港くんは僕を見て「オーバーサイズが流行しているから大丈夫じゃない」と笑った。自分では似合っているかどうか全くわからなかったが、港くんが言うからそうなのだろう。

 長身の店員がしきりに「何があったの」と聞いてくるので、「ちょっとした誤解があったんだよ」と返事をする。

続きは本書でお楽しみください。