スクール・カースト盆踊り/『運動音痴は卒業しない』郡司りか⑪

小説・エッセイ

公開日:2020/11/15

郡司りか

 エッセイを書くときは歩きながらテーマを考えることが多いのだけど、さっきから人のいない公園を何周もうろうろしている私は近所の不審者に見えてるかもしれません。ふと見上げると青い空と、マンションのベランダからの視線。お願いだから通報しないでください。

 長い時間歩き続けていると思い出すことがあります。昔通っていたマンモス校、中高大エスカレーター式の女子校です。私は高校1年時に入学したのですが、最寄駅から学校までの道がなんせ遠かったのです。徒歩30分以上もする道のりをどうやって乗り切ろうかと、当時はいつも考えていました。携帯電話や音楽プレーヤー(ギリMD世代)は禁止だったので、代わりに本を読みながら歩いたら先生にものすごくドヤされました。

 登下校ひまつぶしの模範解答は「友達とお喋りしながら歩く」だったようです。大抵の生徒は私みたく工夫する必要はなかったのかもしれません。

 異様に厳しかった校則には、「一人称は私(わたくし)にしましょう。」や「休日もファーストフード店やカラオケには出入り禁止。」などがありました。

 そのなかでも厳しすぎてちょっと笑ってしまったのが、「カバンは肩に掛けず、肘に掛けて持ち、左手を添えましょう。」です。一体なぜ肩に掛けることがいけなかったのか、確かな理由は最後まで教えてくれなかったのだけど従うしかありませんでした。ブラック校則の話になるとテーマがそれてしまうのでまたいつか。とりあえず辞書も体操着も、重すぎる革のスクールバッグもすべて右肘にかけて持ち運びをしていたということは伝えておきます。

 このように多少の苦痛は笑いに変えて消化させるのは私の鉄板対処法でしたが、それでも笑いに変えられなかったことはあります。

 昔からダンスが苦手でした。

 今でこそ見てくれる人が笑ってくれるようになったのだけど、高校生の多感な時期にはそうはいきませんでした。多感だからこそ自分の立ち位置に敏感で、なじる側かなじられる側か、いつも気にしていました。「人をなじる」というのは、いじりやいじめに発展する前の行為であると思います。人を自分より弱い立場にするために粗探しをして指摘するのです。私もその渦の中にいたのですが、人をなじる行為は性格上合わないため、自動的になじられる側でした。

 なじりがいじめと変わった決定打は、体育の授業でした。

 高校1年生の記憶だけ抜けていて思い出せないのですが、体育祭か何かで発表するダンスの練習時に、私だけダンスの振りがワンテンポ遅く、しかも明らかに手足の動きがみんなと違いました。ふざけていると思われても仕方がないほど酷かったと今では思います。

 先生はカースト上位の女子に任せっきり、その女子は「今から前でひとりで踊ってくれる?」と私を指差し言いました。

 体育の授業が終わるまで、みんなは体育座りで見学、私だけヘトヘトになりながら踊り、いつまで経ってもまともに踊れない様子をクスクス笑われ続けた30分間は自尊心を破壊するには充分でした。

 そのダンスをみんなで踊った体育祭か何かでは、私は最後列の端っこ。ダンスが終わったら、ひっそりとただ終わることだけを待つ1日でした。

 なぜ、いつも基準は「できる人」なんだろうか。

 その理由はわかります。スポーツだって勉強だって、評価するためにできるかできないかを基準にすることは当然であり、それで文明の力は発展していくのですよね。

 けれどせめて学生のうちは、発展することは大人に任せて、楽しむことを優先してみたい。苦手な人と得意な人が笑い合える何かがあればいいのにな。それはクスクスじゃなくて、ハッハッハーがいい。

 高校1年の終わりに、父の転勤が決まりました。家族で上京し、私は神奈川県立立野高校へ転校しました。朝ドラを観てから登校できるほど近いという理由で選んだこの高校には、体育祭がなかったのです。

 ないなら作ってみるのはどうだろうか。運動音痴も運動得意も楽しめる体育祭を。

 自分も楽しめる体育祭を作りたいという不純な動機で、私は転校してまもなく生徒会長に立候補したのです。

<第12回に続く>

プロフィール
1992年、大阪府生まれ。高校在学中に神奈川県立横浜立野高校に転校し、「運動音痴のための体育祭を作る」というスローガンを掲げて生徒会長選に立候補し、当選。特別支援学校教諭、メガネ店員を経て、自主映画を企画・上映するNPO法人「ハートオブミラクル」の広報・理事を務める。
写真:三浦奈々