ヤンキーからカツアゲされた中高時代…でもくじけず美大を目指せた理由/『バチェロレッテ』杉田陽平の「妄想力が世界を変える」③

文芸・カルチャー

更新日:2020/11/24

撮影:江森康之

 バチェロレッテにより最後のふたりまで選ばれ、“杉ちゃん”の愛称で視聴者から人気を集めた杉田陽平さん。番組最終回後のアフタートークでは改めて告白をするなど、バチェロレッテへの愛の強さを見せつけた。

 男性陣にとっては強敵、視聴者にとっては唯一無二の癒しの存在、そんな杉田陽平さんのパーソナリティを深掘りする連載。幼少期のルアー作りへの情熱を語った前回に続き、第3回ではちょっと切ない中高時代について語ってくれました。

自分の自転車が自販機の上に置かれていた中学時代

 物腰のやわらかな語り口が印象的な杉田さんは、子どもの頃の自分をこう語る。

「やっぱり、ルアー作りに熱中していた頃は、共通言語もないから少し浮いていたかもしれない。工作とか絵がうまい、手先が器用でちょっとおとなしめの少年だったと思います。」

 彼が生まれ育ったのは、三重県の津市。当時はヤンキーが多く、おとなしい杉田少年は狙いの的になりやすかったという。

「たとえば、電車の中でカツアゲにあったこともあります。次の駅で降りろって言われるんですけど、僕は嫌だーって言いながら、手すりにしがみついてなんとか耐えようとする。周りは怖いから見て見ぬふりですよね。向こう側から『降りちゃダメよ』と声援だけは聞こえてくるんですけど。

 あとは、中学生の頃塾に通っていたのですが、23時くらいに終わって外に出たら自分の自転車がない。なんでないんだろうって探し回っていたら、自販機の上に横たわっていたこともありました。」

すぐに財布を差し出し株爆下がりの高校時代

 切ない青春時代の記憶はまだまだ続く。

「高校生の頃、男友達と女友達ふたりの4人のグループで仲良くなって、遊ぶことがあったんです。せっかくだから学校の近くのゲーセンにプリクラを撮りに行こうってなったんですけど、ゲーセンはヤンキーだらけ。僕も男友達もオタクっぽいくせに、調子に乗って女の子と遊んでいると思われて、すぐに目をつけられました。当然のようにカツアゲをされるわけです。そこで僕はもう、慣れた手つきでスッと自分の財布を差し出しました。もちろん怖いからっていうのもありますけど、とにかく『3000円くらいしか入ってないぞ』と見せたかったんです。抵抗するよりもそっちの方が早いって思ったんですよね。

 でも、もうひとりの友達は違った。絶対に渡さねえ、って抵抗するわけです。なんなら『殴るなら殴れよ』という剣幕でヤンキーに立ち向かっている。彼、株爆上がり。僕、株爆下がり。

 田舎町の小さな高校だったから、翌日にはすぐにその話が広まっていて、それから卒業まで僕はずっとヘタレキャラの印象を払拭できないままでした。」

僕はとにかく先生に恵まれていた

 切ない中高生時代の記憶ばかりが思い出されるが、そんな環境の中でも彼は美大を目指して予備校に通い、無事合格とともに上京した。彼は当時を振り返りながら「とにかく先生に恵まれていました」と語る。

「小学1年生の頃から、近所のおじいちゃんがやっている、生徒が3人くらいしかいないお絵かき教室に通っていたんです。そこは決して本格的な技術を学ぶ場所ではないけど、とにかく先生が特別褒めてくれました。一度、『この子には一番期待をしていて才能を感じている』と両親に話しているのを聞いたことがあって、僕のことをすごくスペシャルな存在だと思ってくれているんだと嬉しくなったことがあります。

 高校も美術科だったのですが、先生が僕のスキルを認めてくれて、高校だけじゃなくて大学まで行った方がいいと勧めてくれたんです。美大用の塾に行った方がいいというのも、僕ではなくて、周りの教師が背中を押してくれた。その塾でも、夏期講習だけでも東京のもっとレベルが高い予備校に行って揉まれてきた方がいいと勧めてくれました。勧められるがままに僕は進んで行って、結果的に美大合格へとつながった。特に、恵まれていたのは、絵の上手になる方法や、目標を達成する事を褒めてくれるのではなく、直向きに努力している過程、事態をいつも評価してくれていた事です。僕の場合、直ぐには合格できなくて、長い間、浪人をしていたのですが、東京で描いた絵を、地元の先生に見せるととても嬉しそうに褒めてくれました。

 恵まれていたのは、先生だけではなく、親もそうだったと振り返る。

「うちの両親って、決して成果主義じゃないんですよね。たまに実家に帰ったときに、つい『あの人はこんなに出世して』とか『この人は何億の売り上げを出して』みたいな話をしてしまうんですが、必ず『そんなに儲けたところで仕方ない。そういう人だって良いことばかりじゃないんだ』と返されてしまう。僕に決して高望みをしない親だったから、僕が少し頑張るだけでその低い期待値を大きく上回ることができて、より褒めてもらえるといういい循環もありました。だから両親は、僕が『バチェロレッテ』に出るということも、というか、そもそもオーディションに受かるってことも、すべてが予想外だったんじゃないかな(笑)」

<第4回につづく>