神奈川県横浜立野高等学校/『運動音痴は卒業しない』郡司りか⑫

小説・エッセイ

更新日:2020/12/1

郡司りか

 転校して初めて校舎を訪れた日のことを、今でも覚えています。自転車では登れなさそうなほどの急坂を母と上がり切ったときに見えたグラウンドでは、青空が広くて驚きました。

 それは高校生になって初めて感じる清々しさでした。

 

 やたら強面に見えた先生たちも、社会人経験を得て教師を志されたという担任の先生も、面白いくらいみんなアッサリしていて、私をひとりの人間として扱っていることがちゃんと伝わりました。油でベトベトだった自分が急に綺麗な水で洗われた気分でした。

 生徒のほうはというと、各々所属している部の練習に必死になっており、他人をなじったりしてる暇なんてなかったようです。

 クラスの友達はやたらとサッパリしていて、女子同士でもみんな苗字で呼び合っていました。私は今でも旧姓の「三浦」と呼ばれています。

 

 しばらくして半年経たずで、生徒会長に立候補しました。

 そのときの行動力は今でも信じ難いです。校内で知らない教室があったり、なんなら迷子になったりもしていた頃でした。(たぶん方向音痴なだけ)

 

 立候補した理由は、誰かに推薦されたわけではなく、もちろん「天使なんかじゃない」の翠みたく人気者だったわけでもないです。ただ、体育祭を作りたかったからです。

 立野高校では20年ほど体育祭を実行していませんでした。その代わりに「クラスの日」という半日のみのスポーツ大会はありました。

 一方的に笑われる心配もなく、毎日楽しく過ごせることの喜びを噛み締めていたところ、喜びが爆発し、恩返ししたくて堪らなくなったので「何かして欲しいことはないか?」と尋ねまわってみたところで出たのが「体育祭を味わってみたい」です。

 体育祭を作るのに1番手っ取り早いのは生徒会長になることだと先生に教えてもらいました。

 

 立候補者は私を入れて3人でした。それぞれ2週間ほど選挙活動をして演説し、全校生徒からの投票があります。その結果、なんと当選することができたのです。

 このように書くと、私に人徳があったからだとか、何か強い信念があったからだと勘違いさせちゃうかもしれませんがそんなことはありません。転校生の私を会長として受け入れた学校と先生と友達の懐が広かったのだと今でも思います。

 今度こそ私も体育祭を楽しみたい! そう思って、「運動音痴も運動得意も楽しめる体育祭」を裏テーマとして作り始めたのです。

<第13回に続く>

プロフィール
1992年、大阪府生まれ。高校在学中に神奈川県立横浜立野高校に転校し、「運動音痴のための体育祭を作る」というスローガンを掲げて生徒会長選に立候補し、当選。特別支援学校教諭、メガネ店員を経て、自主映画を企画・上映するNPO法人「ハートオブミラクル」の広報・理事を務める。
写真:三浦奈々