石川啄木を無限の借金地獄へと追い立てたもの/炎上案件 明治/大正 ドロドロ文豪史④

文芸・カルチャー

公開日:2021/1/29

炎上案件 明治/大正 ドロドロ文豪史

著:
出版社:
集英社インターナショナル
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日本文学史に残る数々の名作の裏には、炎上があった…! 不倫やフェチ、借金、毒親、DVなど…文豪たちは苦しみながらアノ名作を残した。炎上キーワードをひもとき、彼らの人生の一時期を紹介する『炎上案件 明治/大正 ドロドロ文豪史』(山口謠司/集英社インターナショナル)から、5つの炎上案件を掲載!
※本記事は 山口謠司 著の書籍『炎上案件 明治/大正 ドロドロ文豪史』から一部抜粋・編集した連載です

炎上案件 明治/大正 ドロドロ文豪史
『炎上案件 明治/大正 ドロドロ文豪史』(山口 謠司/集英社インターナショナル)

石川啄木の成心

借金王啄木が求めたもの

炎上案件 明治/大正 ドロドロ文豪史
イラスト:三浦由美子

 詩はいわゆる詩であってはいけない。人間の感情生活(もっと適当な言葉もあろうと思うが)の変化の厳密なる報告、正直なる日記でなければならぬ。したがって断片的でなければならぬ。─まとまりがあってはならぬ。そうして詩人は、けっして牧師が説教の材料を集め、淫売婦がある種の男を探すがごとくに、何らかの成心をもっていてはいけない。
石川啄木『食うべき詩』)

 

「成心」とは、もともとは「ある立場に囚われた見方」つまり先入観のことを言った。夏目漱石は『明暗』で「成心があっちゃ、好い批評が出来ない」と書いている。

 しかし、「成心」は、同時に「下心」のことをいう。鷗外は、『舞姫』に「おのれも亦伯が当時の免官の理由を知れるが故に、強て其成心を動かさんとはせず」と使っている。

 石川啄木(一八八六〜一九一二)は、詩人が詩を書こうとするとき「先入観」や「下心」のようなものがあってはならないというのである。

下心があってはいけない

 石川啄木は、借金にまみれて、二十六年という短い生涯を閉じた。

 自分が天才だと信じていた啄木にとって、借金はそれほど重い苦悩ではなかったかもしれない。それに、父親が住職を務める曹洞宗の寺院・宝徳寺で少年期を過ごすなかで、布施として他人から金品をもらうことが当たり前と思っていた啄木は、人が自分に供することを当然と受け取っていたようである。

 上京してまもなく、岩手県盛岡尋常中学校の三年先輩である金田一京助が近所にいると知ると、下宿に転がり込んで、勝手に酒を飲み飯を食う。二人で本郷のやぶそばや天ぷら屋に行き、ビフテキを食い、ビールを飲んで気炎を揚げたと日記に書かれるが、この金は全部金田一が払っている。

 また金田一は、蔵書を売って啄木に金を貸したことがあったが、啄木はその金を握りしめて浅草に行って酒を飲み、女を買い、寿司屋へ行き、西洋料理を食ってまた別の人のところに、金を借りに行く。

 死ぬ二年前に二百字詰めの原稿用紙に書かれた「借金メモ」が残っているが、そこには明治三十七年暮から四十二年までの六十四件の借金の相手と金額が列記してあり、その合計金額は、千三百七十二円五十銭にのぼる(『新文芸読本 石川啄木』)。

 当時の一円は、今の約一万円に換算できる。とすれば千三百七十万円ほどの借金をしていたということになる。

 そのうち借金の額がもっとも多いのは、啄木の妻節子の妹の夫・宮崎郁雨(一八八五〜一九六二)で百五十円、金田一京助には百円だった。他に北原白秋に十円、吉井勇に二円、木下杢太郎に一円などである

 メモは、もちろん返済をするためのものではない。

 ただのメモなのである。

 なぜならこのメモには、家賃を踏み倒したということも書いてある。

 それもただ一件だけのことではない。北海道にいた時の家賃、東京に出てきてからの家賃のすべてを啄木は払っていないのだ。

 たとえば、明治三十八(一九〇五)年三月十日から五月十日までいた牛込区払方町(現・新宿区払方町)大和館では、詩集『あこがれ』を刊行するが、その出版のために出入りする来客を接待するための金も大家の付けにして、二カ月の間に、七十円の借金を作り踏み倒す。

 書店への付け、料亭、料理屋の金も、当然のように払わない。

 啄木の有名な歌に次のようなものがある。

 はたらけど
 はたらけど猶わが生活楽にならざり
 ぢっと手を見る(『一握の砂』)

 もちろん、啄木は一生懸命働いている。

 東京朝日新聞での校正、二葉亭四迷全集の校正、新聞歌壇での撰者としての仕事、歌を詠み、詩を書き、小説の構想も練る……。しかし、それでも金はない。それは入って来る収入以上に出て行くお金が大きいからだ。

 啄木の日記を読むと、驚く程お金の話がよく出て来る。

「着物の裂けたのを縫おうと思って、夜八時頃、針と糸を買いに一人出かけた。本郷の通りは春の賑わいを見せていた。いつもの夜店のほかに、植木屋が沢山出ていた。人はいずれも楽しそうに肩と肩を摩って歩いていた。予は針と糸を買わずに、『やめろ、やめろ』と言う心の叫びを聞きながら、とうとう財布を出してこの帳面と足袋と猿股と巻紙と、それから三色菫の鉢を二つと、五銭ずつで買ってきた。予はなぜ必要なものを買う時にまで『やめろ』という心の声を聞かねばならぬか?」(明治四十二年四月八日)

「月給二十五円前借した」(明治四十三年四月一日)

「原稿料は一枚三十銭の割で先々月貰ってある」(同四月二日)

「毎日新聞から三月分の歌四回分謝礼二円」(同四月四日)

「妻の勘定によると、先月の収入総計八十一円余。それが一日に一円いくら残って、外に借金が六円許りある」(同四月四日)

「夜、羽織を質に入れて、ビールを飲む」(同四月十日)

啄木が本当に欲しかったもの

 明治四十二(一九〇九)年四月七日の『ローマ字日記』を見ると、こんな記事が見える。これは啄木が赤裸々に自らの性生活などをローマ字で綴ったものである。ローマ字で書いたのは、これならローマ字を解さない妻が読んでもわからないと思ったからだった。

 

 昨日社から前借した金の残り、五円紙幣が一枚サイフの中にある、午前中はそればっかり気になって、仕様がなかった。この気持ちは、平生金のある人が急に持たなくなった時と同じ様な気がかりかも知れぬ。どちらもおかしいことだ、同じ様におかしいには違いないが、その幸不幸には大した違いがある。

 

 啄木にとって五円は大金である。しかしその金は借りた金であって、啄木のものではない。

 本当は何が欲しいのかと、啄木は自問する。

「予の求めているものは何だろう? 名? でもない、事業? でもない、恋? でもない、知識? でもない。そんなら金? 金もそうだ。しかしそれは目的ではなくて手段だ。予の心の底から求めているものは、安心だ、きっとそうだ!」(『ローマ字日記』四月十日)

 安心─しかし、心を安ませるには、啄木の身体はすでに結核に蝕まれていたし、時代も大きな変化を遂げつつあった。

 安心することができない、啄木の不安を、さらに具体的に書いた言葉もある。

「予はこの考えを忘れんがために、時々人の沢山いる所─活動写真へ行く。また、その反対に、何となく人─若い女のなつかしくなった時も行く。しかしそこにも満足は見出されない。写真─ことにも最も馬鹿げた子供らしい写真を見ている時だけは、なるほど強いて子供の心に返って、すべてを忘れることもできる。が、いったん写真がやんで『パーッ』と明るくなり、数しれぬウヨウヨした人が見え出すと、もっとにぎやかな、もっと面白い所を求める心が一層強く予の胸に湧き上がってくる。時としては、すぐ鼻の先に強い髪の香を嗅ぐ時もあり、暖かい手を握っている時もある。しかしその時は予の心が財布の中の勘定をしている時だ。否、いかにして誰から金を借りようかと考えている時だ! 暖かい手を握り、強い髪の香を嗅ぐと、ただ手を握るばかりでなく、柔らかな、暖かな、真っ白な身体を抱きたくなる。それを遂げずに帰って来る時の寂しい心持ち! ただに性欲の満足を得られなかったばかりの寂しさではない。自分の欲するものはすべて得ることができぬという深い、恐ろしい失望だ」(同前)

 しかし、この個人的な不安が、幸徳秋水の大逆事件を機に、啄木の心を「国家」への不安へと動かしていく。

妻が引き継いだ金銭出納簿

 明治四十三(一九一〇)年五月二十五日に検挙された社会主義者、無政府主義者の中に、明治天皇暗殺計画に関与したものがいるとして、幸徳秋水、宮下太吉、管野スガ、新村忠雄、古河力作などが逮捕され、翌四十四年一月十八日に死刑判決、二十四日には十一人の死刑が執行される。

 東京朝日新聞に勤めていた啄木は、この事件や取調の経過を容易に知ることができた。

 啄木は、死刑判決が出てまもなく「日本無政府主義者陰謀事件経過及び附帯現象」といいう記録を書き始める。もちろん、これは公開されることはなかったが、これをもとに、啄木は「時代閉塞の現状」という評論を書く。

「我々は一斉に起って先ず此時代閉塞の現状に宣戦しなければならぬ。自然主義を捨て、盲目的反抗と元禄の回顧を罷めて全精神を明日の考察─我々自身の時代に対する組織的考察に傾注しなければならぬのである」

 そしてこう書く。「我々日本の青年は未だ嘗て彼の強権に対して何等の確執を醸した事がないのである」

 しかし、啄木に残された日はもう僅かだった。

 結核が啄木の身体を侵し、日記にお金のことさえ書けなくなると、節子夫人がそれを引き受けるように「金銭出納簿」を付けるようになる。

 啄木が亡くなる数カ月前に入って来たお金は、二件。

 東京朝日新聞の佐藤編集長から、社内有志十七名の見舞金として三十四円四十銭。

 森田草平が、漱石の夫人から預かってきたと言う、十円と征露丸。

 出て行くお金には、日々の、貧しい食事のためのとうふ二銭、あげ三銭、梅ぼし五銭、ダッシ綿十銭。

 しかしそれに混じって、かば焼き三十二銭、おすし二十五銭、おさしみ十五銭、チョコレート、たばこ、コーヒーなどが記される。これは啄木のための食事だったに違いない。

 そして、啄木が亡くなった明治四十五年四月十三日、香奠百二十円が入る。

 しかし、それでもこの金では節子や家族を養うには十分ではなかった。

 節子は、函館にいる両親のところに身を寄せるのである。

 文学的には「成心」などする余裕もない短い一生だった。そして、金を借りるということにおいても、啄木には「成心」などまったくなかった。ただ、必要があるから、人から借り、そしてそのまま返済するつもりもなく遣ってしまう。

 はてしなき議論の後の
 冷めたるココアのひと匙を啜りて
 そのうすにがき舌触りに、
 我は知る、テロリストの
 かなしき、かなしき心を(『ココアのひと匙』)

 啄木には、貧しくても、人に金を借りてでも、テロリストのことを議論するには、「ココア」がなくてはならなかった。

 不安をねじ伏せるための分不相応な贅沢が、啄木を無限の借金地獄へと追い立てたのだった。

こう生きて、こう死んだ

石川啄木 明治十九(一八八六)年~明治四十五(一九一二)年

岩手県に僧侶の父の長男として生まれる。本名、一。盛岡中学中退。カンニング事件などで退学勧告を受けてのことだった。在学中に、後の妻、堀合節子、金田一京助らと知り合う。十七歳の時に第一詩集『あこがれ』を出版し、天才少年詩人と称されるが、同じ頃、節子と結婚し生活のために代用教員となる。その後、北海道での放浪生活を経て上京。「東京朝日新聞」の校正係として勤務する傍ら、与謝野鉄幹の新詩社に参加し短歌を発表。歌集『一握の砂』を刊行。生活に即した口語体の、旧来の短歌になかった三行書きによる短歌で注目される。しかし生活は常に困窮をきわめた。大逆事件に衝撃を受け、社会主義思想に傾倒。没後に評論『時代閉塞の現状』が発表された。肺結核で死去。他に歌集『悲しき玩具』(没後に出版)など。

<第5回に続く>

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