与謝野晶子はのちの夫鉄幹を友人とともに想い歌に詠む/炎上案件 明治/大正 ドロドロ文豪史⑤

文芸・カルチャー

更新日:2021/2/6

鉄幹に思いを寄せる二人の女性

 三度の渡韓を経た鉄幹の歌は、次第に派手な丈夫ぶりが消え、新しい変化が表れる。

 それは、二人の女性の出現とも関係があった。

 山口から鉄幹が連れて上京した林瀧野は聡明な女性で、歌の心得もあった。

 明治三十二(一八九九)年十一月、鉄幹は、東京新詩社を創設し、翌年四月には、雑誌『明星』を創刊する。この時に掛かった金は、すべて林瀧野の両親に頼んで出してもらい、編集にも林瀧野が携わっていた。

 さて、鉄幹は、明治三十三(一九〇〇)年九月発行の『明星』第六号に、「改正新詩社清規」を掲げる。

「われらは互いに自我の詩を発揮せんとす、われらの詩は古人の詩を摸倣するにあらず、われらの詩なり」と言うのである。いわゆる「自我独創の詩」と呼ばれるもので、これは、「万葉集古今集等の系統を脱したる国詩」(与謝野鉄幹『東西南北』の序文)であった。

 こうした鉄幹の言葉は、日本中の歌人に大きな影響を与えていった。

 たとえば、『明星』(明治三十三年九月号)の「越後男」投稿にこんな言葉が載せられる。

「自我の上に立てよとのみさとし、翻然夢のさめたる心持致し候。げに歌は我れの歌に候べきを、何しか仏の前に手合すようなる劣根鈍機に甘じ候いけん」

 福沢諭吉が「独立自尊」を掲げて慶應義塾で人々を鼓舞したように、鉄幹の「自我独創の詩」宣言は、多くの歌人に伝統から離脱することの大切さを教えたのだった。

 そして、その影響を大きく受けることになる二人の女性が鉄幹の前に現れる。

 与謝野晶子と山川登美子である。

 鉄幹はこの時、林瀧野と結婚していて、子どももいた。

 二人は妻子ある鉄幹に恋をし、それぞれ「自我独創」の歌の力をめきめきとつけていく。

 そして、この二人との恋によって、鉄幹もまた大きく成長することになるのである。

 山川登美子は明治十二(一八七九)年七月十九日に、福井県遠敷郡竹原村(現・福井県小浜市)に生まれた。代々、小浜藩主酒井家の重臣として仕えた武家である。

 明治二十六(一八九三)年、小浜の雲城高等小学校を優秀な成績で卒業すると、一年間、歌道、書道、華道、琴などの稽古事に勤しんだ。旧家らしく子どもの頃から、歌の嗜みはあったようだが、まさか鉄幹によって古典的な歌から「自我独創」の歌を詠むようになるとは、この時には予想だにできなかったことだろう。

 明治二十八年、十六歳の時、登美子は大阪の梅花女学校に入学する。

「『みだれ髪』論」を書いた山崎ひかりによれば、登美子は画家を目指し美術学校への進学を考えていたが、この道は、父や姉達に反対されて閉ざされたとのことである。

 明治三十三(一九〇〇)年八月、登美子は鉄幹と出会う。

 鉄幹が大阪に講演に来たのである。

 登美子は、何回か行われた鉄幹の講演のすべてに出席し、自分から鉄幹に、八月九日の夜、住吉で会いたいと伝えたという。

 登美子は、長身で情熱的で丈夫ぶりの鉄幹に心を奪われたのだった。

 ただ、この住吉の夜には、もうひとり女性がいた。

 将来の与謝野晶子、この頃はまだ鳳志ようという二十二歳の女性である。

 晶子は、堺県和泉国第一大区甲斐町(現・大阪府堺市堺区甲斐町)の和菓子屋「駿河屋」の家に生まれた。

 堺女学校卒業後、同校補習科で学び、家業の店番、帳簿付けなどをしながら古典『しがらみ草紙』『文學界』などを読み漁った。

 明治三十二(一八九九)年、河井酔茗らのいた関西青年文学会に入り、鳳小舟の名前で「よしあし草」に詩歌を発表したりしていた。

 そして、登美子と同様、明治三十三(一九〇〇)年八月三日、晶子は、大阪に来た鉄幹に出会うのである。

熱い想いを歌に詠む

 登美子と晶子は、鉄幹の講演会で出会い、そして、お互いが鉄幹のファンであるということで親しくなった。

 明治時代文学の専門家である西尾能仁は、「二人の心の底に、ほのかな競争心が当人達も気づかないまま、静かに燃え始めていなかったとは断言できないように思う」(西尾能仁『晶子・登美子・明治の新しい女―愛と文学―』)という。

 八月九日の夜、登美子が鉄幹に会いたいと言い、そこに晶子も同席した。

 しかし、晶子は先に堺に戻り、登美子は鉄幹と二人で梅田駅まで一緒に歩いた。

 以来、二人は『明星』に、鉄幹に向けた熱い「自我独創」の歌を発表していく。

 

 あたらしくひらきましたる歌の道に君が名よびて死なむとぞ思ふ
(明治三十三年十月『明星』第七号)

 その人の袖にかくれん名もしらず夢に見し恋あゝもろかりき
(明治三十三年十一月『明星』第八号)

 

 これらは登美子が詠んだ歌である。

 晶子も、登美子に負けず、鉄幹を思う歌を発表する。

 

 わが歌に瞳のいろをうるませしその君去りて十日たちにけり
(明治三十三年九月『関西文学』第二号)

 

 そして、『みだれ髪』に収録されることになるこの歌も、明治三十三(一九〇〇)年十月『明星』第七号に発表された。

 

 やは肌のあつき血しほにふれも見でさびしからずや道を説く君

 

 同年十一月、鉄幹は京都にやって来る。登美子と晶子に会うためであった。

 そして三人で粟田山に泊まったのだった。

 ここで、登美子は鉄幹と晶子に告白をする。

 父が登美子と同郷の男・山川駐七郎との結婚を決め、それに従うため郷里の小浜に帰るというのであった。

 

 それとなく紅き花みな友にゆづりそむきて泣きて忘れ草つむ
(明治三十三年十一月『明星』第八号)

 

 登美子はこの歌を残し、歌の世界からも身を引いてしまう。

 だが、登美子の結婚は、翌明治三十四(一九〇一)年十二月の夫・駐七郎の死で終わってしまう。肺結核だった。

 そして、夫の死を悼む十首が、明治三十六(一九〇三)年七月号の『明星』に掲載される。

 

 地にひとり泉は涸れて花ちりてすさぶ園生に何まもる吾

 今の我に世なく神なくほとけなし運命するどき斧ふるひ来よ

 帰り来む御魂と聞かば凍る夜の千夜も御墓の石いだかまし

 

 夫の死後、登美子は明治三十七(一九〇四)年四月、日本女子大学英文科予備科に入学し、翌三十八年一月には、晶子と増田雅子との合著歌集『恋衣』を出版した。

 しかし同年十一月、急性腎臓炎に罹り、それがもとで呼吸器疾患を併発し、明治四十二(一九〇九)年四月十五日に亡くなってしまう。享年二十九であった。

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