「デートDV」って??「暴力」を「愛」と思い込む病いの怖さ。そのセックス観は重大問題!/3万人の大学生が学んだ 恋愛で一番大切な“性”のはなし②

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公開日:2021/2/2

約3万人の大学生に「人間と性」をテーマに講義を行った村瀬幸浩氏。当時学生に話した中身を要約して紹介しつつ、講義を聴いた学生たちのリアルなレポートを元にまとめた1冊。複雑なからだ・性の仕組みを学び、性について語る「言葉」を持つことで、大切な人との関係性は変わる…!

3万人の大学生が学んだ 恋愛で一番大切な“性”のはなし
『3万人の大学生が学んだ 恋愛で一番大切な“性”のはなし』(村瀬幸浩/KADOKAWA)

気づきにくい「彼からの」暴力

 みなさんはDVという言葉を聞いたことがあると思いますが、デートDVという言葉はどうでしょう? 意味も含めて知っていますか?

 そもそもDVはドメスティック・バイオレンスのこと。ドメスティックとは「国内の」とか「家庭的、家庭内の」という意味で、そのまま日本語に直訳すると「家庭内暴力」になります。ところが、わが国では「家庭内暴力」は子どもが親に振るう暴力のことというように、すでに定着した言葉になっています。そこで、配偶者から(事実上、婚姻関係と同様の事情にある者も含む)の暴力を文字通り家庭内暴力と言ってしまうと混乱するので、ここでは日本語には訳さず「DV」というようにそのまま表現しておきます。

 また、ここで取り上げようとしているDVの問題は、「配偶者からの」ではなく「付き合っている相手からの」暴力です。結婚しているわけではない、婚約しているのでもない。ですから、DVのDはドメスティックの頭文字ではなく、デート(Date)のD。ただDVとだけ書くと、どっちなのか区別がつかないので「デートDV※1」と表現することにしました。

 前置きが長くなりましたが、この言葉が使われるようになったのは比較的最近のことなのです。配偶者からの暴力は夫婦喧嘩などと言われ、誰もまともに相手にしない問題として扱われていたのですから。実際には殴られ蹴られ、髪の毛を引きちぎられ、骨折させられ、もちろん罵倒、暴言、セックスの強要などなど、殺人以外のあらゆる虐待があったにもかかわらず。他人に行ったら明らかな犯罪行為を、妻に対してするとなぜ犯罪にならないのか。こんな当たり前の疑問がまともに取り上げられ、その防止に向けてやっと立法化されたのが何と二〇〇一年だったのです。

 では、配偶者でない場合はどうか。夫婦喧嘩に対して痴話喧嘩、という言葉がありますね。辞書を引いてみたらこうありました。「情交関係のある男女が愛情問題などでするけんか」ですって。情交関係なんていうとゾクッとしそうですが、つまりセックスの体験など性的に親密な関係になると起こる身体的、精神的、性的暴力※2のことです。

 実は私自身、大学生を相手に性について語り、望ましい関係づくりについて話してきたのですが、その「関係」の中に忍び込む「暴力・支配」に気づき、そのことを意識して講義内容に組み込むようにしてきました。

※1 山口のり子さんがアメリカで勉強されて日本に帰られ(2001年)、その後「アウェア」というNPOを起こし、翌年、DV加害者男性のための再教育プログラムを始められた。また、この問題を若いうちから「デートDV」という表現で気づかせ、対等で互いを尊重し合う関係づくりに向けて活動している。

※2 このほかにもお金をせびりとったり、借金しても返さないなどの経済的暴力、携帯電話のアドレスを消したり、プライバシー画像を拡散するなどリベンジポルノのような社会的暴力も含まれる。

講義を聴いた女子学生のレポート

 デートDVの話を聞いていて2年前のことを思い出しました。彼は電話を3分に1回くらいかけてきて、私のすることに干渉してきました。大学に入学したばかりの時で、サークルに入るな、バイトするな、男としゃべるななどと言ってきました。最初は、私のことを考えてくれているんだと思っていましたが、だんだんエスカレートしてきて怖くなりました。耐えられなくなって別れ話を切り出すと、さらに私に付きまとうようになりました。直接的暴力はありませんでしたが、あれは精神的暴力だったのだと思いました

 私も彼からDVを受けているんだなぁと気づきました。腕を思い切りつかまれたり、つねられたり、あとは性的暴力があります。謝ることはありません。付き合って2年近くになります。普通に話している時はとても楽しいのですが。もうしばらく会うのはやめようと思います。このようなことで悩んでいる人が他にもいることがわかって良かったです。こういう現実をもっとたくさんの人に知ってもらいたいと思います

 私が以前付き合っていた人と別れた原因はセックスの強要でした。私がしたくないと主張しているにもかかわらず、強引にしようとしてきました。1回目はやめたのに何回も要求してくるので本気で怒鳴って対抗したら、こう言いました。「なんで?」。バカなんじゃないかと思いました。嫌がっている相手を目の前にして言うセリフか? と思いました。結局別れましたが、その後も付きまとったり、待ち伏せしたり、電話をかけ続けたりとストーカー行為が1年続きました

 デートDVというのを初めて知って、今まで気づかなかったけれど、少しそのような被害を受けていると感じました。付き合っているのに対等ではない気がします。身体的暴力はないけど、言葉や性的な暴力はあると思います。会う度に、痩せろとか体のことを言われます。避妊にも協力的ではありません。体のことを考えるとツライです。デートDVと意識していなかったけれど、これから私はそれに対して怒ったりしていいんだと思いました。相手が強くて主導権を握っていると男らしいとか、引っ張ってくれてリードしてくれるって勘違いしてしまいがちなので、気をつけようと思いました

 暴力、というと身体的なものばかりを考えてしまいがちでしたが、精神的、性的といったようなものも暴力としてくくられるものであることを知りました。そう考えると、案外簡単に(?)というか身近なところに暴力はあるんだと思いました。そして何だか泣きたくなりました。以前付き合っていた人との間にあったことは、私にとっては暴力に値するものだったことに気づいてしまったからです。互いに忙しく、会う回数が減った時、相手の部屋で会うと毎回のように、私にとってはイヤな、性的行為に持ち込むのです。何のために会うのか、何のために付き合っているのか、私には見えなくなってしまいました。性的欲求のはけ口にすぎないのかな? と思えてしまいました。相手にも、この授業を受けてもらいたい

 DVの話を聞いていて前の彼氏を思い出しました。デートしていて小突く、叩く、蹴るということもよくあり、バイトの後、帰りが遅いとすぐカーッとなりました。それ以来、男の人が上に手を上げただけで思わず目をつぶってしまうように…。別れたいと言うと、泣いて謝ったり、死ぬとか言い出す。結局ズルズルと付き合っていました。今考えるとどうして何年も付き合っていたのだろうと思うけど、その頃はDVだなんて考えたことはなかったし、ガマンするしかないと思っていました。彼も病んでいたけど、私も病んでいたと思います

「エッ、本当にこんなことがあるの?」という感想から「そういう話、私も聞いたことがある」「似たような体験してきた」とさまざまな声があがると思います。しかしいずれも“どうしてこんな状況なのに付き合うの?”という疑問が湧いてくるのではないでしょうか。いかにも男主導、女受動でとても対等な関係とは思えません。この問題はこの本の中で繰り返し提起することになりますが、社会的諸関係はもとより、とりわけ性的関係において両者が対等であるべきという考え方を学習する機会がなく、対等をベースとした関係づくりのイメージを男も女も全くと言っていいほど身につけてこられなかったところに最大の理由があります。仮に言葉として学んだことがあるにしても現実の社会の中に、そして自分が育ってきた家庭の中にロールモデル※1をほとんど見ていないのです。むしろ望ましくないモデルを目にすることが多い。特に性行為をめぐっては男性の攻撃性、支配性ばかり強調されるものが多く、その視聴によって男性の意識の中に、さらに男性を経由して女性の意識の中にも「セックスとはそんなものなのか」という形で刷り込まれていく。女子学生の文章からそうしたことを感じとることができます。

※1 対等な役割関係を実際に体現している模範、手本になるもの。

「暴力」を「愛」と思い込む病い

 紹介したショートレポートは、私が学生に「自分の体験を書いてください」などと指示したり求めたりしたものではないのです。出席の確認と併せて、その日の講義に対する感想、意見を書くという性質のもの。それなのに、中には自分の高校時代の元彼との出来事などが悲しみや怒りとともに書かれているものもありました。それにこうして「書ける」ということはある程度自分の心を客観視できているからで、現在、問題の渦中にあったりすればなかなか書く気にはなれないでしょう。そう考えると実態はもっと深刻で、日常性を帯びているというべきかもしれません。「付き合っているのに、なぜ?」という章タイトルにしましたが、「本当に付き合ってるといえるの?」というべきですね、これは。

 

 ところで、学生たちの体験レポートを読んでいて気づいたことがありました。

 ①講義を聴くまでは、自分がされていることをDV、暴力と思っていなかった。

 ②自分のことを愛してくれているからそうする(される)のだと思っていた(ひとに相談するとそう言われた、というのもある)。

 ③自分が我慢できなくなって怒ったり泣いたりすると、彼は「もうしない」と謝ってくるので、本当は悪い人じゃないと思っていた(思おうとしていた)。

 ④私がいなくなったら彼は一人で生きていけそうにない(彼も実際そのように言う時がある)ので、我慢してあげなければと思っていた。

 すべてに共通しているわけではありませんが、これらはそれぞれ少しずつ重なっている事柄です。講義を聴いて「あ、自分もそうかな」とか「自分がされているのはDVなんだ」と思いついたという点はまずほとんどすべてに共通していて、それを読んで私も「ああ、人助けしたんだ」などと胸をなで下ろす始末でした。そうですよね。これも愛情表現の一形態、などと無理に自分を納得させて交際を続けたり、その揚げ句“結婚すれば変わるかもしれない”なんて考えて結婚に踏み切ったらもう大変、その関係を解消するためにはそれまでの何倍もの困難を乗り越えねばならなくなるのですから。それにしても、小突かれたり、体のことをからかわれたり、セックスを無理強いされたり、電話で付きまとわれたりして、それを「愛」と思い込むなんて一体どういうことなのでしょう。「彼のことを病気だと思いましたが、実は私も病気だったと思います」という文章にも出合いましたが、まさに依存症という心の病いでしょうか。だとしたら、本気になって考え直さなきゃいけませんね。

性関係が始まると表面化する

 少なくとも恋愛中、セックスする前はそうではなかった……ところが、ある時から、その“ある時、というのは多分セックス以後”のこと。それ以前は対等の関係であったのに(あったと思っていたのに)、性関係が始まるとそれが崩れていく―なぜでしょうか。

 ここのところが、とても重要なのです。セックスが対等の関係のもとでの戯れ合い、楽しみ合いになっていないというか、そのように意識されていない、教育されていないという大問題がその背景にあると思うのです。セックスは男性が思い立って、その気になって仕掛けるものという意識、思い込みですね。リードするというか、支配するというか、攻撃するというか、それまで横関係だった2人の関係が縦の関係、上下関係にすり替わっていく瞬間、といっていいのかもしれません。そうした意識の中には性器の形の違いからくるイメージもあるのでしょうが、何よりも男性の心の奥底にある男ジェンダー(男性という性別意識)としての女性に対する優位性、優越性意識が一番問題です。それは社会によって、あるいは家庭の中でつくられたもの(形成されたもの)であって、本来何の根拠もないものです。したがって男性の中にはそんな優越意識など持たない人ももちろんたくさんいます。だって、“生まれつき”そんなふうに思っているなんて考えられませんものね。だから、それはつくられたものなんですが―

 ただ、その意識は普段眠っているというか気がつかないでいる。なぜならそうした考え方を持っていることが相手にわかってしまったら恋愛関係など破綻してしまうから、だから恋愛を続けようとする男性はそうした意識をどこかで抑制している、隠している、あるいは本人も気づかないでいるといったほうがいいかもしれません。それがセックスする関係になった途端、変貌する。抑制されていた優越意識が支配意識となって表われることになるのです。もちろん男はみんな、ではありませんが、そういうケースが結構多くあるのです。もともとあったとはいえセックスによって表面化するとすれば、そのセックス観、大いに困りものですし、何とか切り換えなければ本当にいい関係は育てられません。重大問題です。

<第3回に続く>