いくらいい言葉でも、相手が望んでいなければ余計なお世話/ほっといて欲しいけど、ひとりはいや。 寂しくなくて疲れない、あなたと私の適当に近い距離②

暮らし

公開日:2021/2/20

オトナになるほど複雑になっていく人間関係。近すぎても疲れるし、遠すぎても寂しい。重すぎてもしんどいし、軽すぎても不安。そんな面倒くさい心の存在を認めて、自分の感情を自分で尊重してあげよう。疲れた心のお守りになる一冊から厳選してご紹介します。

ほっといて欲しいけど、ひとりはいや。 寂しくなくて疲れない、あなたと私の適当に近い距離
『ほっといて欲しいけど、ひとりはいや。 寂しくなくて疲れない、あなたと私の適当に近い距離』(ダンシングスネイル:著、生田美保:訳/ CCCメディアハウス)

ほっといて欲しいけど、ひとりはいや。 寂しくなくて疲れない、あなたと私の適当に近い距離

ほっといて欲しいけど、ひとりはいや。 寂しくなくて疲れない、あなたと私の適当に近い距離

ほっといて欲しいけど、ひとりはいや。 寂しくなくて疲れない、あなたと私の適当に近い距離

 人は主体性と独立性を失わないために、完全に自分自身に集中できる自律的な空間が必要である。これをドイツ語で「シュピールラウム(Spielraum)」と呼ぶ。ところが韓国語には、このシュピールラウムを正確に伝えられる単語がないという。概念が存在しなければ、その概念に該当する現象も存在しない。

 だからだろうか。パーソナルスペースの重要性が多少軽視されている韓国文化の中では、とにかく日常でこれを侵害されることが多いように思う。電車やバスで隣の人におかまいなしに大股開きで座ったり、まわりの人を押しのけて歩く行為を特に無礼と感じない人が多い。こういう社会では、他人の心理的なスペースに対する境界がゆるいのも仕方がない。

 

 もし、誰かが自分の家に遊びに来て、断りもなしに冷蔵庫の中をひっかきまわし、寝室のドアを平気でガバッと開けるなら、その瞬間、それは訪問ではなく侵犯になる。日常生活で物理的な安全スペースを侵されたときの不快感。それは心に置きかえても同じ。自分の考えを他人に強要することは、その精神世界、すなわち心のスペースを侵すようなもの。それが、どんなに相手を心配して言うことであってもだ。

 他人のスペースをむやみに侵してはならないように、人の心に立ち入る発言と行動にも気をつけなくてはいけない。アドバイスはタイミングだ。頼まれないうちは、いくら血となり肉となる人生の真理であっても、言わなくてよし!

<第3回に続く>

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