「知らない世界を知ることは生きやすくなること」ろうの両親を持った子が綴る一人称の物語【読書日記38冊目】

文芸・カルチャー

公開日:2021/3/1

2021年2月某日

 つい最近まで「子ども」「高齢者」「動物」が苦手だった。

 怖かったのだ。

 子どもやお年寄り、動物が苦手だと言うと、冷たい人だと思われそうだ。彼らに相対するときには必ず最大限のやさしさを持って接しなければいけない気がする。

 それは、“彼ら”のことを「弱くて守らなければいけない存在」だとどこかで思っているからで、そうやって無意識のうちに他人を“見下している”自分に向き合わなければいけなくなる。だから「子ども」「高齢者」「動物」とは積極的には関わりたくなかった。

 この「弱くて守らなければいけない存在」には、「障害者」も含まれるかもしれない。

 ハンデがあることに対して、どう向き合えばいいのかわからない。「弱くて守らなければいけない存在」として腫れ物に触るような対応は失礼な気がする。一方で、障害のない人と全く同じことを求め、サポートをせずにいるのも違う気がする。

 自分の一挙一動が“正しい”かわからないから、間違っていると指摘されたり、相手を傷つけたりするリスクが高くなるところにできれば首を突っ込みたくないという気持ちもある。

佐々木ののかの読書日記

 しかし、“彼ら”はそもそも「弱い」のだろうか。
 何を以て「弱い」としているのか。

ろうの両親から生まれたぼくが聴こえる世界と聴こえない世界を行き来して考えた30のこと
『ろうの両親から生まれたぼくが聴こえる世界と聴こえない世界を行き来して考えた30のこと』(五十嵐大/幻冬舎)

 そんなことを考えさせてくれたのが、五十嵐大さんの新刊『ろうの両親から生まれたぼくが聴こえる世界と聴こえない世界を行き来して考えた30のこと』(幻冬舎)だ。

 前作の『しくじり家族』(CCCメディアハウス)では、暴力的な祖父や新興宗教の熱心な信者である祖母など、五十嵐さんの“ややこしい家族”について、実直ながらややコミカルに描かれていて面白く読んだ。

しくじり家族
『しくじり家族』(五十嵐大/CCCメディアハウス)

 他方、本書では、耳の聴こえない親に育てられた子ども(コーダ)である五十嵐さんが、母との関わりを中心としたぐるりのことについて内省的に綴られている。声を絞り出すような語りが聞こえてくるようで、より内面に迫っている印象だ。

 本書の軸は、耳の聴こえない親を否定する感情と、それでも支えたいと思う肯定の気持ちの間の揺れ動きにある。

 母の喋り方を同級生に笑われたことがきっかけになり、授業参観や三者面談に母を呼びたくなかったこと。いじめや進路のことを母に相談できなかったこと。母を“見捨て”、上京することにしたこと。

 こうした幼少期から現在までの30のエピソードに、「母を傷つけてしまった後悔」と「母を守りたい気持ち」が何度も何度も転写される。

 ひとつのエピソードの帰結や感情だけを取ってみれば、同じ景色を見ているように感じる人もいるかもしれない。しかし、実際は視界の“高さ”が変化している。それはちょうど螺旋階段のようにぐるぐると、既視感のある問題にぶち当たりながらも階段を一段ずつ上がっていくようでもある。途中で“逃げる”ことはあっても、向き合い続けることをやめない。そうした著者の葛藤に励まされる人は多いのではないだろうか。

 また、著者による母の描き方も、本書における好きなところのひとつだ。私が最も好きなのは「障害者の子どもだから」という理由で差別的なまなざしを向けてくる近所のMさんのエピソードだ。子どもだった著者があらぬ嫌疑をかけられたとき、母が上手く発声できないながらもこう言い放った。

「わたしの耳が聴こえないから、わたしが障害者だから、息子をいじめるの?」

 普段は“おとなしくて気弱”な母に反論され、近所のMさんは明らかに狼狽し、後日謝ってきたという。おまけに今では茶飲み友達として家を行き来する仲になり、「いつまで昔のことを言ってるの」ととぼけたように笑い飛ばしたというエピソードには、自分の中の「障害者」のステレオタイプを解体させられた。同時に、私の中にも「近所のMさん」がいたかもしれないとドキリとしたのだった。

 そもそも、「女性がいると会議が長引く」といった発言のように、「子ども」「高齢者」「障害者」といった、対象を何らかのカテゴリーに押し込めて、大きな主語で語ること自体が、どんな文脈であっても差別であり、分断のはじまりである。

 しかし、多くは(だから良いというわけでは全くないが)「差別してやろう」という気などない。「子ども」や「高齢者」や「障害者」について語れるほど多くの当事者に出会ったことがないために(あるいは興味すらないために)そうしたカテゴリー以前に固有の人間であるという認識を持たないことが、差別の最も“悪質”な点ではないだろうか。

 私にも、近所のMさん同様に、「障害者」をひと括りにして見ていたようなところはなかっただろうか。少なくとも、その解像度はずっとずっと低かった。

 そうした自分の中にもある差別意識に向き合わされるのはつらいため、できれば向き合いたくないのが本音である。同じような気持ちで本書を敬遠する人も多いだろう。

 けれど、本書を読んで、自分の中の差別意識に気づかされることはあっても、責め立てられる気持ちになることはなかった。それどころか、かえって心が楽になる側面もあった。誤解を恐れずに言えば、聴こえる世界と聴こえない世界を往還する著者を羨ましく感じたほどである。

 自分の知っている世界にのみ生きていれば、想定内だから安心できる。一方で、限られた世界で生き続けることによって息が詰まって苦しくなる。そんなときに、“ここではないどこか”の世界の存在を知るとホッとして呼吸がしやすくなった経験はないだろうか。

 自分の知らない世界について知ることは、自分自身を救うことになる。だから、人は本を読んだり、人と話したり、旅をしたりする。その意味で、著者は“聴こえない世界”への水先案内人であり、本書は“聴こえない世界”への紀行文学であるというのは過言だろうか。

 少なくとも私は、本書を読み終えた後に世界が広がり、呼吸がしやすくなったように思う。差別だとか、「障害者」だとか、そういう話を取っ払っても、耳の聴こえない世界にもっと触れてみたい。しかも、その世界が、私が生きる世界と地続きにあることが、とてもうれしい。

文=佐々木ののか バナー写真=Atsutomo Hino 写真=Yukihiro Nakamura

【筆者プロフィール】
ささき・ののか
文筆家。「家族と性愛」をテーマとした、取材・エッセイなどの執筆をメインに映像の構成・ディレクションなどジャンルを越境した活動をしている。6/25に初の著書『愛と家族を探して』(亜紀書房)を上梓した。
Twitter:@sasakinonoka