助けが必要な人に「特別扱いするな」が見当違いな理由とは? 介助の仕事を俯瞰する【読書日記40冊目】

文芸・カルチャー

公開日:2021/4/5

2021年3月某日

 ここ1年ほど、介護に関するインタビュー連載をしている。知識もないままにご依頼を受けてから少しずつ勉強をしているけれど、介護に関する問題から目を逸らしてきた自分自身にまっすぐと向き合わなければいけず、恥ずかしくて隠れてしまいたいような居所のなさを奥歯でかみ殺しながら続けている仕事だ。

佐々木ののかの読書日記

「家族」に身内の介護が“押し付けられがち”な問題、中でも女性がケアを担わされがちであるという問題、“良いケアラー像”を内面化させられがちな問題、介護の仕事の賃金が少ない問題、介護の担い手が足りない問題、身体が不自由な人に対して安楽死をそそのかす人がいる問題、そしてそのことを擁護する人が社会に少なからずいる問題。

 こうした問題や、これらがなぜ問題なのか。本当に恥ずかしながら、私は知らなかった。今もまだ知らないことがたくさんあるのだろうと思う。

 しかし、(自分の未熟さを弁護するわけではないが)多くの人にとって介護は「よく知らないもの」だろうと思う。しかも、なんとなく希望がないような、後ろ暗いイメージがあった。だから知ることを避けていたのかもしれない。

 けれど、それは「介護」を絶望の領域に追いやっておきたい人たちの詭弁かもしれない。そうでなかったとしても希望を見出したい。そうでないなら、老いがただただ恐怖でしかなくなるではないか。

介助の仕事―街で暮らす/を支える
『介助の仕事―街で暮らす/を支える』(立岩真也/筑摩書房)

『介助の仕事―街で暮らす/を支える』(筑摩書房)は、「重度訪問介護従業者養成研修」での録音記録を基に記されたもので、介護(以下、介助)の世界の仕事のあり方から歴史、制度までの概観を教えてくれる。厳しい現状を伝えつつも、それらは変えていけるのだと説いてくれる希望の書だ。

 とりわけ、「介助の仕事のよいところ」の多さには舌を巻いた。

 ヘルパーの仕事は基本的には1対1で行われるものだから、上司や同僚と仲良くしなければやっていけない仕事よりも楽に働ける場合があること。70代後半~80代の方でもヘルパー職で働いている人もいること。親の介助等で仕事を辞めなくてはならなくなり、再就職は難しいものの、失業者扱いにもならない「ミッシングワーカー」の再起のはじまりとして介助職が有効なのではないかということ。介助を必要とする人がいる限り続けられるため、若者を欲している田舎の「地域振興策」にも有効であること。

 このように聞いてみると、介助の仕事を生業としないまでも「少しかかわる」ハードルは低くなるように感じられる。

 また、介助の仕事を得る方法もひとつではない。

 障害者が主体となって組織・運営している「自立生活センター(CIL)」を利用すること。「一人事業所」をつくって介助者を集めて働いてもらうこと。「一人事業所」の運営は面倒だが人は集められる場合は、登録する組織だけをアウトソーシングすることができることなど。

 これらの制度は、かつて施設に「収容」されていた障害者たち自らが勝ち取ってきたものだという歴史も語られる。その系譜を辿ることで、どんなアプローチが良くて、ダメなのかを考えるモノサシが自ずと身に付く。

 第6章までの情報は実践するうえでは有益なものばかりだったが、介助職に就くかわからない、介助を受けるとしてもまだ先の私にとっては、第8章「へんな穴に落ちない」、第9章「こんな時だから言う、また言う」で語られる、ケアに関する心構えや考え方が身になった。

 とりわけ、第9章では「安楽死」がテーマに据えられていたため、前のめりになって読んだ。2020年7月に報じられた「ALS女性嘱託殺人事件」以来、私の関心事のひとつだったからである。

 報道された当時、SNS上では「安楽死も仕方ない」という犯人への同調や、ALS女性への“同情”も見られた。私自身も「死にたいという意思を尊重することも必要ではないのだろうか」と思いかけたが、少し調べてみると「本当にどうしようもない」状態にはあったかどうかは疑わしく、そう思わされたのではないか。つまり、「自分で選んだ」わけではなく、「選ばされた」のではないかと思うようになった。

 本書でも当該の事件について、多くの事業所から介助者が細切れで派遣されていたことに触れ、まとまった時間がとれないことで外出ができない、介助者との人間関係が築けない等で不自由を感じていったのではないかという構造的な問題を指摘するとともに、死を助けることを認めるきまりについて一貫して反対している。

 詳細は本書に譲るが、安楽死や嘱託殺人から派生して、介助を要する人たちに対してあれこれ言う人たちへの「言い返し方」が参考になったので、ぜひ紹介させていただきたい。

 確認1・「ああなったら私なら死ぬ」は普通は誹謗中傷だ
 確認2・なんであなたは威張っていられるのか不思議だ
 確認3・「特別扱いするな」はさらに意味不明だ

 確認1に関しては、「たいがいの人が最も大切にしている自分の命よりも『あの状態になる』ことのほうが重いもの」だというのは、「あの状態」になるのは死ぬほどいやだと言っているのと同義なので、誹謗中傷だということ。確認2に関しては、「自分は消される側ではないと思っている」人たちに、「(その他の人に価値がないと言うなら)あなたには存在する価値があるのか」と問うべきだということが語られている。

 とくに、確認3に関してはよく聞かれる話だ。介助だけでなく、生活保護や何らかの措置を受けている人に対しての「特別扱い」を忌み嫌う人たちがいる。「特別扱い」とは、「過度な待遇をすべきでない」ということが前提となっているが、介助や生活保護を受ける人は「過度な待遇」を受けているのだろうか。

 そのことについて、著者は身近な例を出して、こんな風に説明してくれる。

 さて、この社会、つまり多数派用に作られてきた社会にあっては、同じ旅行をしたり、パチンコ屋に行ったりするのに、かかる手間が違います。その手間の違いの分の費用を、社会が別途出そうということです。そしてその一部が介助です。それだけです。不当な特別扱いとは少しもなりません。(中略)自分が普通の労力を使うのではできないことについて補うようにということなのだから、努力不足を言われるいわれもありません。なんか文句があるのか、です。まあ、ありません。

「特別扱い」をおもしろくないと感じる人への返答として、これ以上の言葉があるだろうか。しかも、大真面目な返答なのに、どこかユーモラスな雰囲気に、笑いがこみあげてくるのは私だけではないだろう。この言葉を受け取った人も、笑い出してしまうかもしれない。何か機会があったら、こんな風に伝えてみたい。

 本書は、介助の仕事の概観をさらいやすいように内容がかなり圧縮して書かれている。そのため、参考文献の案内が豊富なのも特徴のひとつだ。興味を持った領域の話は、そこからまた掘り下げて調べてみればいい。

 そうした意味でも、本書は多くの人に開かれている。

 人々がなんとなく遠ざけている介助の仕事を身近に感じさせてくれる、多義的にやさしい、介助の入門書なのだ。

文・写真=佐々木ののか バナー写真=Atsutomo Hino

【筆者プロフィール】
ささき・ののか
文筆家。「家族と性愛」をテーマとした、取材・エッセイなどの執筆をメインに映像の構成・ディレクションなどジャンルを越境した活動をしている。6/25に初の著書『愛と家族を探して』(亜紀書房)を上梓した。
Twitter:@sasakinonoka

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