“カミナリおやじ”眠るように逝く。破傷風の治療法を開発した「北里柴三郎」/死にざま図鑑⑥

文芸・カルチャー

公開日:2021/4/24

死にざま図鑑』から厳選して全7回連載でお届けします。今回は第6回です。日本の歴史人物の「死にざま」にスポットを当て、その生涯を紹介。残念なラストに終わった、あの人物の大失敗とは? 幸せな最期を迎えたあの人物の処世術とは? 偉人たちの最期の姿を通じて、よりよく生きる術を知る歴史雑学本です。

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死にざま図鑑
『死にざま図鑑』(伊藤賀一:監修、田渕正敏:絵、沖元友佳:文/ポプラ社)

死にざま図鑑

北里柴三郎(1853~1931年)

ドイツに留学して、世界的な細菌学者のコッホのもとで細菌の研究にたずさわる。破傷風菌という、体内に入ると高熱を出し、死ぬこともある細菌の純粋培養に成功し、その治療法も発見したぞ。仕事仲間でも、弟子でも、がんばらないやつには大きな声でお説教。ついたあだ名は「カミナリおやじ」だ。2024年度からの千円札の肖像画はこの人。

純粋培養:一種類の菌をほかの菌と混ぜないようにして人工的に育てること。

死にざま図鑑

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 ドイツに留学し、コッホの弟子になった柴三郎は、わき目もふらずに研究に没頭した。宿舎と研究所の行き来しかしない熱心さで、「ドイツ人にも、彼ほどの勉強家はいないだろう」と言われるくらいだった。

 その留学の4年目、柴三郎は何度も実験をくりかえすうちに、破傷風菌が酸素を嫌う性質があることを発見し、その純粋培養に成功した。コッホにも、「我が研究所はじまって以来の大発見である」と大喜びされたんだ。

 その後、破傷風の治療法も開発。柴三郎の研究成果は、日本の医学を大きく進歩させ「日本近代医学の父」とよばれた。世界からも評価されて、第一回ノーベル生理学・医学賞の候補者に選ばれていたくらいだったんだ。

 きびしい性格から、「カミナリおやじ」と弟子からコッソリあだ名をつけられていた柴三郎。そのきびしさは、研究への情熱のあらわれだった。だから、弟子たちはこわがりつつも尊敬していたんだ。

柴三郎のざっくり年表

1853年 現在の熊本県に北里惟信の長男として生まれる。
1874年 東京医学校(現在の東京大学医学部)に入学する。
1883年 東京医学校を卒業し、内務省衛生局に入る。
1885年 ドイツに留学する。ベルリン大学で、コッホの研究室に入る。
1889年 世界で初めて破傷風菌の純粋培養に成功する。
1892年 帰国し、福沢諭吉の援助を受けて、伝染病研究所を設立する。
1894年 ペスト菌を発見する。
1914年 北里研究所を設立する。
1923年 現在の日本医師会の初代会長に就任する。
1931年 78歳で病死する。

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<第7回に続く>

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