「お皿に豆腐が入らない!」おいしいお豆腐を買ったものの、パニックに/料理に対する「ねばならない」を捨てたら、うつの自分を受け入れられた。⑤

食・料理

公開日:2021/5/23

料理に対する「ねばならない」を捨てたら、うつの自分を受け入れられた。』から厳選して全8回連載でお届けします。今回は第5回です。36歳のときにうつ病を患い、料理だけができなくなってしまった食文化ジャーナリストの著者。家庭料理とは何か、食べるとは何かを見つめなおした体験的ノンフィクションです。

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料理に対する「ねばならない」を捨てたら、うつの自分を受け入れられた。
『料理に対する「ねばならない」を捨てたら、うつの自分を受け入れられた。』(阿古真理/幻冬舎)

豆腐が皿に入らずパニックになる

 私のうつは一進一退をくり返しつつ、ゆっくりゆっくり回復していった。それでも、朝目が覚めたときは人生に何もいいことがないような気分だし、冷え込んだ日は、朝ご飯を食べて食後の薬を飲むと、「今日は無理」、ともう一度布団に潜り込んでしまうこともあった。

 はた目にはノロノロ動いているように見えるうつの人が、実は一生懸命体を動かし、フル回転で頭を働かせていることがある。だからすぐに疲れ果てる。そんなわけで、寝たきりの時期が過ぎても、1日の半分を寝て過ごす日は多かった。

 歩く速度は遅く、何度も休憩しなければならなかったが、自転車に乗れば昔みたいに疾走できた。自慢じゃないが、私は自転車を漕ぐスピードが速い。重たいママチャリを、タイヤが細くて軽いシティサイクルに替えてから、スピードはさらに増していた。歩くのも速かった私は、のろのろとしか歩けなくなったことが歯がゆかったが、自転車ならほかの自転車を追い越してスイスイ走れるので、ちょっとだけ自尊心を取り戻せた。

 ある程度活動できるようになると、お気に入りの池がある公園へ散歩するようになった。ベンチに座り、ジーッとアリの動きを目で追う。風にそよぐ木々を眺める。池のきらめきを観続ける。自然に囲まれぼんやりできる公園は、気持ちがよかった。

 冬になると、寒いし日が短いことがつらくなる。しかも、東京の冬は午後2時前ぐらいから、空が黄色みがかってくる。そういう光が夕方までない関西から来た私には、空が黄色くなると、夕暮れが早く来たように感じ焦る。だからますます、冬は気分の落ち込みが激しくなる。

 絶望的な気分になっていた2月のある日、公園へ行った。木立の間の暗い小道から、ちょっとした広場に出るところで、光が射す向こうで梅が満開になっているのが見えた。うっとりするような花の香りも漂ってくる。フッと体がラクになり、生きていていいんだと思えた。

 それから1カ月ぐらい経ち、また公園で桜の木立を前にぼんやりしていたときのこと。独特のグレーの枝と幹が、うっすらとピンクがかっていることに気がついた。もしかすると、桜はピンクの色を幹でつくって溜め、花まで送り込んで咲かせるのかもしれない。そんな風に思ったとき、桜からエネルギーを分けてもらった気がした。

 

 そうやって自然に触れることで、私は気づかないうちに生きる力を取り戻しつつあった。しかし、回復がかえって事態を難しくする場合がある。料理はできるようになったものの、まだまだ困難が多かったあの頃のことを書こう。

 ある初夏の日、料理は何とかできそうだが、やる気が起こらないから1皿を冷ややっこで済ませよう、と思いつく。少しでもおいしく食べたいと、ふだんは買わないちょっと値段が高めの楕円形のパッケージに入った豆腐を買ってみた。

 ところが台所でパックを開け、皿に入れようとしたときに気がついた。このサイズでは、いつも冷ややっこをのせている皿に入りきらない。

 途端にパニックになる。「お皿に豆腐が入らない!」。泣き叫ぶ私の声を聞きつけ、隣の部屋で仕事をしていた夫がやってくる。「どうしたんや」。パッケージを右手に、皿を左手に持ったまま、私はジタバタと暴れ、「これだと、入らへん。入らへんねん!」と泣きわめく。夫は私の肩を叩き、「大丈夫や。皿を替えたらいいだけやん」と言い、私の手から豆腐を取り、皿をテーブルに置いてから別の皿を食器棚から出し、移し替えてくれた。

 振り返るとギャグみたいな展開だが、当時は必死だった。別の大きめの皿に入れればいいだけのことが、あの頃の私にはできなかった。いつもと違う豆腐を買うことができたのは、多少体調がよくなっていたからだが、そこまでで精いっぱいだった。

 人間は、臨機応変に対応することが必要な場合も、変化を楽しむときもあるが、日常生活はルーチンに支えられている。毎日同じ順番に靴紐を結んだと言われるイチローでなくても、誰でも何かしら自分のルーチンを持っている。朝起きて、いつもと同じ皿とコップで朝ご飯を食べる。いつもと同じ道を通って職場に向かう。いつもと同じ筆記用具で書く。

 考えなくてもできるルーチンが、大小の予想外の事態が起こりがちな仕事や学業の現場を、あるいは友人や家族との変幻自在な会話を、耐えられるものにしている。常に変化に対応することを求められるからこそ、変わらないいつもの行動、いつもの場所、いつもの道具が、自分を安心させ支えてくれるのだ。

 毎日ふつうに暮らすことが冒険になってしまううつのとき、人は自分を守ってくれるルーチンを、きっと健康なときの何倍、何十倍も必要とする。

 うつだから、人にあまり会えなくなる人がいる。それは、ふだん会わない人には知らないことがたくさんあり過ぎ、説明しなければならないこと、説明してもらわなければならないことが、多過ぎるからだ。どんな会話が生まれ、何を聞かれ、何を言われるか、予想がつかない事態に対応しなければならない。その対応力に不安があるから、知らない人に、親密でない人に、会いたくなくなるのだ。

 新しい場所や行き慣れない場所に行くことや、慣れないものを食べることは、考える力を総動員して、未知の事態に反応する力を必要とする。好奇心旺盛な人が新しいものを好むのは、そのスリルが快感と思えるからだ。

 うつの人は逆である。そうでなくても回らない頭を総動員して、まったく予想がつかない事態に対応するのは身に余る。できる限り、頭は使いたくない。使いたくても使う余力がない。だから、ルーチンができるだけ多いことが望ましい。安心できる、いつもの環境を切実に必要とする。

 私の場合、家事の中でも掃除や洗いもの、洗濯だったらできたのは、少なくとも今までやってきたことであれば、今まで通りの作業として何も考えずにこなすことができたからだ。料理でも、シンプルなもの、今までもつくってきたものだったら、問題なくできる場合があるのは、あまり頭を使わなくても済むからだ。

 私はそのとき、少しでも食卓を楽しくしておいしいものを食べたいと思う、欲望が出始めてきていたのだろう。だからいつもと違う形の豆腐を買った。だけど、いつもと違うサイズなら、いつもと違う皿を用意しなければならない。皿を別のものに替える、ということまで考えるのは、そのときの私の限界を超えていた。

 食材選びに、少しだけ余裕ができたからこそ、陥ったパニック。回復期に体調がアップダウンをくり返すのは、こういう中途半端さの程度を自分で理解できていないからではないだろうか。

<第6回に続く>

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