コロナ禍の今、改めて大切にしたい。いつの時代も人の心を動かす「当たり前の精神」とは/「一生懸命」の教え方

スポーツ・科学

公開日:2021/8/23

我慢強さがない、打たれ弱い、すぐにあきらめる…。そんな「今どきの子ども」との向き合い方に、悩んでいませんか?

甲子園の常連校・日大三高を率いる名将・小倉全由(まさよし)監督が実践するのは、選手に「熱く」「一生懸命」を説く指導。その根底にあるのは、「人を育てる」ことでした。
個を活かし、メンバーの心をひとつにまとめあげ、強力な集団に変えていく方法とは――?すべての指導者に知ってほしい、本当のリーダーのあり方を教えます。

※本作品は小倉全由著の書籍『「一生懸命」の教え方 日大三高・小倉流「人を伸ばす」シンプルなルール』から一部抜粋・編集しました

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「一生懸命」の教え方
『「一生懸命」の教え方 日大三高・小倉流「人を伸ばす」シンプルなルール』(小倉全由/日本実業出版社)

「一生懸命な姿勢」こそが、人の感情を動かすことができる

 どんなに時代が変わろうとも、自らの意思でひたむきに物事に取り組む姿勢、すなわち「一生懸命」であることはとても大切です。

 使い古された言葉ではありますが、一生懸命がんばった姿が、人の感情を動かし、ときには感謝されることだってあります。コロナ禍で非常事態に陥っている今、人と人とが接していくなかで、この「当たり前の精神」が大切になってくるのではないかと考えています。

 

10年前、東日本大震災直後の試合で

 今からちょうど10年前の3月11日、東日本大震災が起きました。このときも今のコロナ禍と同様に、日本は大混乱に陥っていました。

 この年、三高は春のセンバツへの出場は決まっていたのですが、震災の直後は開催されるかどうかも定かではありませんでした。それでも「大阪に行ってから、高野連の判断を仰ごう」と考え、6日後の17日に三高野球部は甲子園を目指して大阪に向かったのです。

 ところが、宿舎に向かう途中、きつい言葉を浴びせられました。新幹線で新大阪駅から在来線に乗り継いで大阪駅に着き、そこから徒歩で梅田駅まで移動して、電車に乗って宿舎まで向かおうとしていた矢先、通りすがりの人から、こんな非難する声が私たちに向けられたのです。

「こんな非常事態のときに、野球なんかやっている場合じゃないだろう!」

 東日本大震災が春のセンバツが開催される直前に起きたため、そうした心情になるのも無理はないのかもしれません。梅田駅で会ったその人は、おそらく私たちの服装や荷物などを見て、甲子園に出場するどこかの学校であること、ひょっとしたら日大三高であることまでうすうす気づいていたのかもしれません。

 けれども、その人の発した言葉は、その場に居合わせた選手全員の心に突き刺さりました。「自分たちは野球をやっていていいのか……」。そんな言葉を口にする選手もいました。

 東日本大震災では、東京の西部にいた私たちも、今までに経験したことのないような激しい地震の揺れを学校内で体験しました。その直後にテレビで映し出された津波の映像には、全員が言葉を失ってしまいました。そのうえ地震の翌日に起きた福島第一原子力発電所の事故によって、日本中がこれからの先行きが不安で、動揺していた時期でもありましたから、「どうしていいのかわからない」という気持ちがあったのも事実でした。

 

 それでも翌日の18日に、日本高野連では臨時運営委員会が開催され、予定通りセンバツを行なうことが決定されました。この報告を受けてから、私はすぐさま選手全員を宿舎の一室に集めてミーティングを行なったのです。その席で私は、こう言いました。

「今は野球をやりたくても、できない環境下にいる子どもたちが全国に大勢いる。そのうえ大地震で避難生活を余儀なくされている人だって大勢いる。だからこそ、こんな苦難な状況でも野球ができることに感謝しながら、誰が見ても恥ずかしくないような試合をやり抜いていこうじゃないか」

 甲子園の初戦の相手は高知の明徳義塾に決まり、大会屈指の好カードとして注目されました。明徳の馬淵史郎監督は当時、春夏合わせて20度の甲子園に出場していて、一度も初戦敗退がありません。初戦にいきなり強豪と、しかも初戦敗退がゼロの監督であるという情報を聞けば、普通であれば「負けてしまうんじゃないかな……」などと、ネガティブなイメージを抱いてしまうものです。

 けれども、このときの私たちは、「全国でテレビ観戦したり、ラジオを聴いてくれたりしている人たちの前で、堂々とした試合をお見せしたい」という思いのほうが強く、「ちょっとやそっとの劣勢ではへこたれないぞ」と気持ちを奮い立たせて試合に臨んだのです。

 

「避難所にいたみんなが勇気をもらいました」

 試合は大方の予想通りの大接戦となりました。3回裏に三高が1点を先制したものの、5回表に明徳が逆転。その後は点を取り合って、4対4の同点から8回表、ノーアウト一、三塁で明徳のバッターがセカンドゴロを打った際、三高の菅沼賢一のホームへの送球がハーフバウンドとなり、キャッチャーが捕球できずに、1点を失ってしまったのです。

 このとき、キャッチャーの鈴木貴弘の顔面にボールが当たって前歯が折れてしまい、ベンチ裏で応急処置を施す事態になりました。けれども鈴木本人は動じる様子もなく、私が、「大丈夫か?」と声をかけると、「大丈夫です! やれます!」と元気に言ったので、そのままグラウンドに送り出しました。直後、送球ミスをしていた菅沼のところに駆け寄り、こう声をかけてくれたのです。

「びびるんじゃないぞ。今度も同じ場面になったら思い切って投げてこい!」

 こんな状況でも、仲間に気配りのできる鈴木の視野の広さには、正直私も助けられました。

 その後のピンチは切り抜け、その裏の三高の攻撃でワンアウト一、二塁という場面で打席に回ってきたのが、直前の守備で顔面に送球が当たった鈴木でした。すると、彼が思い切り振ると、打球は左中間を破り、一塁ランナーまで生還する逆転のツーベースに。これが決勝点となって6対5で勝利したのです。

 そして、試合を終えて宿舎に帰ると、岩手の知人の先生から電話をいただきました。その先生は、震災で避難所生活を余儀なくされているとのことでしたが、電話の向こうでこうおっしゃってくれたのです。

「歯を負傷した選手がグラウンドに戻ってプレーして、逆転のタイムリーヒットを打ってくれたというのをラジオで聴いて、避難所にいたみんなが勇気をもらいましたよ」

 夜、ミーティングで全員を集めて、この話を伝えました。

「鈴木、お前さんのあの必死のプレーで、岩手の避難所にいる人たちが勇気をもらったって、言ってくれたんだぞ。お前さんが逆転タイムリーを打ったとき、みんなが拍手してくれたらしいぞ。やったな!」

 そう話すと、鈴木本人はもとより、選手全員の目から涙がこぼれ落ちました。私自身もその光景を見て、涙をこらえることができませんでした。

「いいか、お前たち全員が勝ち負けを超えて一生懸命プレーしたからこそ、多くの人の心を動かすことができたんだ」

 彼らはその後も2回戦、準々決勝と勝ち続けました。準決勝では残念ながら九州国際大付属に敗れてしまったのですが、選手たちが私との約束を守り、堂々とした試合を見せ続けてくれたことは、今でも私にとっての誇りです。

 一生懸命、取り組む姿勢を見せることで、多くの人の感情を動かす、すなわち感動させることを、鈴木を含めた選手全員のプレーから、私はあらためて学んだ気がしました。

小倉流ルール 一生懸命な姿は、人の心を動かす

<第6回に続く>

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