三百年続く和菓子屋の娘だった私。いつも窮屈で遠くへ行きたかった(皐月・京都)➀/月曜日の抹茶カフェ

文芸・カルチャー

更新日:2021/9/30

川沿いの桜並木のそばに佇む喫茶店「マーブル・カフェ」。ある定休日の月曜日、1度だけ、京都の茶問屋のひとり息子によって 「抹茶カフェ」が開かれる……一杯の抹茶から始まる、東京と京都をつなぐ12ヵ月の心癒やされるストーリーが試し読みに登場! 京都の老舗和菓子屋の娘・光都。彼女と祖母の関係は、一言では語れないものだった。帰郷の道すがら思い出すのは、「おばあちゃん」とのこれまでのことばかりで……。

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月曜日の抹茶カフェ
『月曜日の抹茶カフェ』(青山美智子/宝島社)

 京都にかてええ大学はぎょうさんあるのに、なんでこの子は東京なんか行くんや。

 おばあちゃんにそう言われて「そら、あんたから離れたいからに決まってるやろ」と言い返さなかった私は平和主義だ。話の通じない相手にケンカをふっかけたところで、意義のある対戦になるわけもない。負けない自信はあるが、そもそもどうなったら勝ちなのかよくわからない。

 私の家は三百年前から続く「橋野屋」という和菓子屋で、物心ついたころから両親は店にかかりきりだった。おばあちゃんが言うに、京都の和菓子屋では、料亭や旅館と違って「女将」は存在しないのが慣例だったそうだ。店主であるおじいちゃんを立て、陰で支え、「奥さん」のおばあちゃんは決して表に出て仕切ったりしなかったのだと、そんな話をするときはいつも鼻を鳴らす。

 しかし、おじいちゃんが他界してお父さんが跡を継ぐころにはそんな時代でもなくなっていた。元広告プランナーとしてやり手だったお母さんは自ら「名物女将」の看板を下げて精力的に表を走り回った。百貨店への進出を果たし、ネットショップをスタートさせ、つぶれかけていた店が大繁盛するようになったのはお母さんの功績としか言えない。でもそのせいで両親が家にいることはほとんどなかった。授業参観に来てくれたことも数えるほどだ。

「光都のことは私が育てた」というのがおばあちゃんの口癖で、まあ、嘘ではない。早いうちに店から撤退したおばあちゃんは常に、ひとりっ子である私のそばにいた。

 私はいつも窮屈だった。かわいがられているというより、指図されていると思っていた。スカートの丈、持ち物の趣味、クラブ活動の選び方。日記帳や友達からの手紙も、私がいない間に勝手に読まれていた。そして彼女は必ず難癖をつけることを忘れなかった。

 私は高校に入ったときに決意した。卒業したら、絶対に京都を離れて遠くの大学へ行くのだと。

 そうして、上京してから十年。もうすっかり関西なまりも抜けた。

 こつん、と窓に頭をもたれさせる。ガラスの向こうで、景色がぴゅんぴゅんと流れていく。

 ゴールデンウィークの後半に、私は京都行きの新幹線に乗っていた。考えてみたら五年ぶりだ。最後に帰省したのは、社会人になって二年目の、まだ二十四歳のときだった。

 次は京都、とアナウンスが入り、にわかに身体がこわばった。実家に帰るのにどうして緊張しているんだろう。安らげる場所じゃないのか、ふるさとって。

 

 家のドアを開けたら、雪乃さんが玄関まで出てきてくれた。

「おかえりなさい」

 ふわっとした雪乃さんの笑顔に人心地がつく。

 雪乃さんは私にとって叔母にあたる。お父さんの弟、つまり私の叔父さんの奥さんだ。

 私が高校三年生のとき、雪乃さんは千葉から嫁いできた。当時三十代半ばだった雪乃さんは年齢よりずっと若く見えた。穏やかで、決して出しゃばったり声を荒らげたりしない雪乃さん。

 叔父さん夫婦は二軒先に住んでいて、雪乃さんは嫁いできてからほぼ毎日、おばあちゃんの食事を作りに来たり掃除を手伝ったりしてくれている。もう一緒に暮らしているようなものだ。あの偏屈なおばあちゃんに文句ひとつ言わず、こんなにかいがいしく世話してくれて、私も両親も彼女には感謝しかない。

 どうしてなのか訊いたことはないけど、雪乃さんはおばあちゃんを「タヅさん」と名前で呼んでいる。あの人のことだから、よその土地からやってきた人間に「お義母さん」と呼ばせなかったのかもしれない。京都を愛するのは結構だけど、外部と壁を作りたがるのはおばあちゃんの悪い癖だ。

 雪乃さんに続いて中に入っていくと、居間でおばあちゃんがロッキングチェアに座ってテレビを見ていた。

 私が帰ってきたことに気づいているだろうに、こちらを見ない。仕方ないので「ただいま」と声をかけたら、ようやく顔を上げて目を丸くした。

「なんえ、その頭は」

 五年ぶりに会って、まずダメ出しだ。予想はついていたけど、やっぱりため息が出る。ベリーショートもアッシュブラウンの色も、私はとっても気に入っている。おばあちゃんの指令で高校卒業までずっと、肩につくぐらいの長さを保ち、カラーなどは断じて許されず黒髪だった。その反動かもしれない。

 台所に立っていた雪乃さんが、私に向かって体をよじらせる。

「お昼ごはん、できてるわよ。食べるでしょう」

「うん」

 お父さんもお母さんも、仕事に出かけているらしい。和菓子屋としてかきいれ時だから当然だろう。トイレに行き、洗面所で手洗いをすませて居間に戻ると、おばあちゃんは固定電話で誰かと話していた。ばか丁寧な口調。

 食卓には、錦糸卵がたっぷり載ったちらし寿司の桶が置かれていた。他にも、所狭しと小鉢が並ぶ。伏見とうがらしの蒸し焼き。九条ねぎと鰹の酢味噌和え。湯葉のお吸い物。京漬物盛り合わせ。思わず、ごくんと唾を飲みこむ。

 電話を終えたおばあちゃんが、席に着きながら雪乃さんに言った。

「明日、十時に町内会長さんが来はるから、おうす用意してな」

「はい。柏餅のお土産も、包んでおきましょうか」

 雪乃さんは小皿を分けながら受け答える。

「おうす」とは、簡易的に淹れる抹茶のことだ。

 嫁いでくるまで「お茶って、緑か茶色かぐらいの認識しかなかった」という雪乃さんは、最初はおうすがなんのことかわからなくて、高校生だった私にこそっと訊きに来たりしていた。おばあちゃんは質問を受け付ける隙さえ与えなかったのだ。

 でももう、雪乃さんのほうにこそ、どこにも隙はないだろう。これだけの京料理に腕をふるい、お土産のお菓子のことまで心得ている。

 おばあちゃんは、今度は私を見た。

「吉平さんは元気かい」

 吉平さんは、お茶問屋の福居堂のひとり息子だ。代々家同士の交流があり、お茶屋と和菓子屋という組み合わせも手伝ってしょっちゅう行き来がある。

 福居堂が東京に支店を出すことになって、吉平さんは二月に上京してきた。

「元気だと思うよ、私は一月に会ったきりだけど。マスターが吉平くんは忙しそうだけど前よりよく笑うようになったって言ってた」

 京都の画廊オーナーであるマスターは、この界隈でちょっとした有名人だ。とぼけた風貌のわりに凄腕で、いろいろと手広く事業を起こしている。

 そのひとつである東京のマーブル・カフェで年明けに抹茶イベントをやった日、マスターに頼まれてうちの和菓子を提供したので、そのときそこに巻き込まれていた吉平さんとも少し話をした。

「光都ちゃんの紙芝居、楽しみねぇ。お休みのところ、ありがとうね」

 雪乃さんに言われて私は頬をゆるませる。

 進学した東京の大学で私は演劇サークルに入った。あるとき、新入生歓迎の余興でやった紙芝居が思いのほか楽しくて、私がやりたいのはこれだ!と思った。

 自分ひとりでなんでも決められて、経費がほとんどかからないのも良かった。私が立って絵を抜いたり差したりするための、半径一メートルほどのスペースを用意してもらえれば、特に設備も要らず外でも室内でもできるのだ。保育園や老人ホーム、地域のお祭りなど、こちらから働きかければ興味を持ってくれるところはたくさんあって、一度やるとまた来てくださいと声をかけてもらえることが多い。

 それで私は、卒業後は通販オペレーターの仕事をしながら、ライフワークとして紙芝居を続けている。

 今回、帰省することになったのは、マスターから話を聞いた雪乃さんに依頼されたからだ。彼女は公民館でパートタイムで働いていて、こどもの日のイベントの一環としてぜひにとお願いされた。求められて嬉しかった。だから張り切って準備してきたのだ。

 お吸い物を一口飲み、私が雪乃さんに返事しようとしたところでおばあちゃんが言った。

「紙芝居なんて、今どき流行らへんやろ」

 以前、私が雪乃さんとネット動画の話で盛り上がっていたら「流行りばっかり追って軽薄な」って言っていたじゃないか。この人は結局いちゃもんをつけたいだけなのだ。こうなると、おばあちゃんを前に紙芝居の良さや熱意を語る気になんて到底なれなかった。

 私は黙ってとうがらしをかじる。おばあちゃんがしば漬けを噛むブリブリという音が、食卓に響いていた。

<第5回に続く>

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