【上白石萌音 特別書き下ろしエッセイ】〆切る/上白石萌音『いろいろ』④

文芸・カルチャー

更新日:2021/10/4

上白石萌音さんの初エッセイ集『いろいろ』。「本が好き」という上白石さんによる、ありのままの思いがつづられた書き下ろしの50篇におよぶエッセイ。本篇は、書籍の刊行を前に、上白石さんが気持ちを綴ってくれた書き下ろしエッセイ! 俳優・歌手・ナレーター、そして文筆業と、活動の幅を広げる彼女の「今」は必見です。

いろいろ
『いろいろ』(上白石萌音/NHK出版)

上白石萌音『いろいろ』
©山本あゆみ

〆切る

『〆切本』という本をご存じだろうか。古今の名だたる作家たちが綴った、〆切にまつわるエッセイや手紙、日記などを集めた本だ。夏目漱石、谷川俊太郎、手塚治虫、吉本ばなな(敬称略)など錚々たる顔ぶれが、それぞれに嘆いていたり、謝りに行ったり、逃げようと画策したり……執筆のリアルな裏側を覗くことができる、読書ファン垂涎の一冊である。

 わたしは五年ほど前にこの本に出会い、熱中して読んだ。どんな天才も生みの苦しみを味わうのだということがとても新鮮だった。同時に、計画性のない自分には到底成し得ない仕事だとも感じた。どんなに追われて切羽詰まっても、しまいにはきちんと原稿を揃えて提出するなんて、作家さんって本当にすごいなあ、大変そうだなあと思った。

 そんなわたしに、昨年思いも寄らない話が持ち掛けられた。なんとエッセイ集を出さないかというお誘いだ。本が大好きな自分が本を出すなんて、夢のまた夢。驚きと興奮がキャパを超え、しばらくポーッとした後、ふと我に返った。これは大変な試練ではないか。わたしはこれから「到底成し得ない」と思っていた仕事に取り組むのだ。大変そうだなあと対岸から眺めていた「〆切」が、こちらの岸にひょいと飛び移ってきたのである。

 執筆は、想像以上に難しかった。およそ一年で五十篇を書くと決めたものの、なかなか思うように書けない。言葉が見つからなかったり、うまく書けたと思っても翌朝になると読めたものじゃなかったり……それでも頭を抱えながら何とか遅い筆を進めていた。しかし転機は突然訪れる。じりじりと近づく〆切を恐れる日々の中で、ある時ふと、『〆切本』のことが脳裏をよぎり、そして悟ったのだ。かの夏目漱石でさえ苦しみながら言葉を絞り出していたのに、素人である自分が易々と書けるはずがないじゃないか、と。

 ひとたび困難を受け入れたら、人は少し強くなれるのかもしれない。悩んで当然、苦しんで当然なのだ。ものを生み出すとはそういうことなのだから。己の認識の甘さを反省し改め、それからのわたしは、張り切って苦しんだ。すると不思議なもので、あんなに恐れていた〆切のことを味方につけられるまでになった。わたしを追い詰める鬼だと思っていたその人は、実はお尻を叩いて発破をかけてくれる伴走者だったのだ。

 なんとか拙著が完成したのは、あの日出会った『〆切本』のおかげだと言っても過言ではない。出版を目前に控えた今、激闘の日々を微笑みをたたえて振り返ることすらできる。ありがとう『〆切本』、ありがとう〆切……なんて涼しげに締め括ろうとしているこの原稿も、汗をかきかきなんとか仕上げ、〆切当日に滑り込みで提出する。

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