【話題の「ストゼロ文学」】金原ひとみ『アンソーシャル ディスタンス』の一篇を全文公開 連載第3回

文芸・カルチャー

公開日:2021/10/4

【第57回 谷崎潤一郎賞受賞】コロナ時代の恋愛を描き話題沸騰の金原ひとみの作品集『アンソーシャル ディスタンス』から、「ストロングゼロ」を特別全文公開。飲みやすいがアルコール度数の高い飲料に依存する女性を描き、「自分もこうなりそうで怖い」という声も多数、「ストロングゼロ文学」の代名詞にもなった作品です。

アンソーシャル ディスタンス
『アンソーシャル ディスタンス』(金原ひとみ/新潮社)

 肉巻き雲丹の軍艦に醤油をつけて頬張る。雲丹と醤油の味が強く、ほとんど肉の味がしない。肉から滲み出るのは、脂の匂いばかりだった。行成は主役の雲丹、裕翔は味付けの醤油、私はこの味気のない肉。主役の恋人と見せかけた、えるから海苔の代わりにやってみようという浅はかな思いつきで薄くスライスされた安い肉だ。やってみたらやっぱ海苔の方がよくね? と思われる代替可能が過ぎる罪深き薄い肉だ。

「ミナはさ、このままでいいの?」

 いいと思ってるわけがない。でももうどうしたら良いのか分からない。そしてどうしたら良いのか分からないのは、あなたとの関係も同じだ。か弱そうな若い女性店員が危なっかしく一升瓶からぐい飲みに注いだ、庭のうぐいす、という初めての日本酒をぐっと飲み込み、その水のような飲みやすさに「うん」と納得の声がこぼれる。

「本当に?」

 このままでいいの? の答えだと思われてしまったことを悟り、慌てて「あ、ううん。何ていうか、今はまだ答えを出せないと思ってる」と正直な言葉を口にする。言いながら、既視感に気づく。今は答えを出せないと私が言い、それに対して裕翔の反応を窺うこの瞬間へのデジャヴュだ。きっと前にも同じようなやり取りがあったに違いない。何かフォローをした方が良いだろうかと思った瞬間、そっか、と裕翔は表情を柔らかくした。

「ミナに無理やり別れを迫る気はないんだ。でも、俺たちのこともきちんと考えて欲しいからさ」

 何でそんな話になるんだろう。別に俺はガス抜きに使ってもらって構わないという話ではなかっただろうか。しかしその記憶にもどこか自信がない。自分が記憶を改竄かいざんしている可能性を否定できない。あるいは何かしら、あの彼らの別れの日以降裕翔からきちんと付き合いたい的なアプローチがあったけれど私が完全に忘れているという可能性は。寝不足疲労飲みすぎが限界に達している今、その可能性も確実には否定できない。

 私別にこの人のこと好きじゃないんだよな。カウンターの下で手を握ってきた裕翔の手を握り返しながら思う。でも行成のことも、今はそこまで好きじゃないことにも同時に気づく。男と笑い合って手を握り合いながら、ただ虚しかった。

 これまでずっとホテルに泊まってきたのに、何故か裕翔は俺の家においでよと言って譲らず、別にホテル代払ってもいいよ? とまで言うと「そういうことじゃなくて、ミナに俺のことを知ってもらいたいんだよ」とどうしてここまで言わせられなきゃいけないのかという羞恥を滲ませて彼は言った。この人は、私が思っているよりもナイーブな人なのかもしれない。そう思った直後、どうして好きでもないナイーブな男と寝るためにホテル代を出すと申告するなんていう珍妙な状況に陥っているのだろうと一瞬笑ってしまうが、大量に飲んだ日本酒のせいで、まあたまにはそんなこともあるかと思い直す。

 自分のことを知ってもらいたいという言葉とは裏腹に、私にとって裕翔の部屋はこの間まで吉崎さんと住んでいた部屋であって、細かな吉崎さんの痕跡を見つけては、こんな家に連れて来て俺のことを知ってもらおうだなんて、本気だとしたらこいつはお花畑だなという感想しか出てこなかった。やっぱりホテル代をケチりたかったんじゃないか? そう思いながら、近くのコンビニで買ってきたストロングを勢い良く飲み込む。残りのビールやストロングを冷蔵庫に入れると、中にたくさんの調味料があるのを見て、やっぱり吉崎さんの影を感じる。そういえば、結構前だけれど、自炊にハマっていると彼女が話していたことがあった。

 でも私は裕翔を拒まない。初めて裕翔のベッドに横たわって広がった緊張は、匂いやシーツの感触、まだ未知数のそこに落ちているであろう埃や髪の毛や彼の皮膚片が許容レベルか、ダサい毛布やタオルケットを使っていないだろうかという不安、あらゆるものへの懸念が解消されていくにつれて水位を下げていく。

 裕翔のセックスは普通で、居酒屋のホッケ一夜干しみたいだなと騎乗位に体位を変えて動きながら思う。取り立てて味が濃いわけでも、旨みがあるわけでもなくて、淡白だけど量はあって、居酒屋に行けば三回に一回くらい頼んでしまうし、頼めばまあそれなりの満足感がある。裕翔のセックスは長くて、声を上げながら薄目でさっきまで飲んでいたストロングを探している自分に気づく。集中しようと思えば思うほど、気持ちはストロングに向かっていく。彼がゴムの中に射精した時、「これで飲める」と思っている自分に気づき、この人とのセックスの意味がどこにあるのだろうと心底不思議に思う。

「歯磨きする?」

「あ、さっき買えば良かった」

「ストックあるよ。使う?」

 うん使う、と答えながら、きっとその歯ブラシのストックは吉崎さんが買ったものなのだろうと想像する。罪悪感がないわけではない。それに、同僚の男を寝取ったということがどこかからばれ、噂が立つことへの懸念もあった。それでもこの人と別れられる気はしない。何一つ、私の意志で何かを動かすことは不可能な気がするのだ。この無力感は、行成が一向に回復する兆しを見せないままどんどん鬱を悪化させていった経緯の中で、強固なピラミッドのようなものへと進化し、私の心の真ん中に鎮座している。

 歯磨きをした後、二本目のストロングを開けると裕翔に笑われた。

「まだ飲むの?」

 うん、もうちょっと、と言いながらストロングを持ってベッドに入る。吉崎さんはいつもどっち側で寝ていたのだろうと思いながら、缶を置くためチェストのある側に横になる。裕翔はベッドに入ると私を抱きしめ、何度も髪の毛を撫でながら、今の生活に感じている空疎、こうして二人の時間を持っても私が彼と住む家に帰っていくことの虚しさ、彼女と別れたのも気持ちが私にあったからだということを一方的に話した。もちろん無理強いはしない、口癖のように最後に必ずそう言う裕翔。でも毎晩こうして眠れたらって思ってる。僅かばかりの母性がくすぐられ、私は裕翔の頭を撫でる。だから駄目なんだ。モラルも博愛も、慈愛も持っていないくせに、こうして求められると断れないし拒めない。そして信念も目的もなく自分から蟻地獄に落ちていく。自己分析しても無駄で、そこにあるのは「なんかちょっと可哀想だったから」とか「なんかちょっと寂しかったから」とか「なんかちょっと酔っ払ってて」とかいうしどろもどろな言い訳だけだ。その言い訳はしかも、本心なのだ。そんな私から、裕翔にかける言葉はない。適当に受け流したり、時間稼ぎをするような言葉しか出てこない。ストロングを一気にぐびぐびと飲む。

「寂しい思いさせてごめん」

 そもそも、この人は自分をガス抜きに使ってくれと言っていたはずなのに、毎晩こうして眠りたいなどと言い始めたのは何故なのか、そんなことを言われたらこんな風に思ってもいない言葉を返す他ないじゃないか。大丈夫だよ、と裕翔は優しげに言う。

「ユキのこと」

 言いかけて口を噤む。あれ、と思って隣を見ると裕翔が不思議そうな顔をしている。頭がクラクラして、心臓がはちきれそうなほど脈打った。同じ「ゆ」で始まるとはいえ、行成と呼び間違えるなんて、あまりにもだ。

「いや、裕翔のこと、適当な気持ちで考えてるわけじゃないから」

 動揺のあまり元々何を言おうと思っていたのか忘れて、何だか不倫男みたいなことを言っている自分に更に動揺する。呼び間違えたことはバレていないのか、それとも気付かない振りをしてくれているのか、裕翔は分かってるよと優しい声で言って腕に力を籠めた。眠くて酔っていて疲れていて、もう限界だった。ストロングを飲み干すと、私はスマホでアラームを設定して目を閉じた。

 気を失うようにして眠りについた割には、アラームが鳴る前に目が覚めた。いつもより分厚い掛け布団のせいで寝汗をかいている。まだ四時で外は暗く、アルコールは全く抜けていない。爪で目やにを削りながら体を起こしベッドを出るものの、ふらついて真っ直ぐ歩けず、あちこちに手をかけながら寝室を出てキッチンまで歩き、水道の水を手ですくって飲む。私がお酒を飲みたいと思わないのはこの二日酔いの時だけで、強烈に具合が悪くてもお酒を飲みたいと思わない時間は私にとってそれなりのオアシスとなるのだけれど、オアシスと吐き気がイコールで結ばれてしまうのはそれなりに最低なことでもある。

 寝室に戻って服を身につけていると、リビングのソファに置いていたスマホからアラームが聞こえてきて慌てて全てのアラームを解除する。寝室を覗いてみるけれど、布団に動きはない。裕翔を起こしたくなかった。今ここで、じゃあねとかまたLINEするねとかのやり取りをする気力がなかった。アプリから現在地にタクシーを手配すると、到着まで六分と出た。さっさと出てしまおうと、上着を羽織ってスマホをバッグに突っ込む。裕翔が起きてきたら面倒だ。足早にリビングを出て玄関まで来たところで、奇妙なデジャヴュに陥る。この玄関を見たことがある。これは、まだ行成と一緒に住む前、行成が住んでいたアパートの玄関だ。

「ん?」

 声となって溢れた疑問に、逆に慌てる。あれ? と言いながら私はリビングに引き返し、寝室のドアをゆっくりと押し開ける。寝室には小さなランプしか点いておらず、布団に顔を埋めた裕翔の顔は確認できない。私は今、さっきまで一緒にいたのが裕翔なのか行成なのか確認しようとしている。そのことに気づいた瞬間、思わず笑ってしまう。やばいな、と一言脳内でこぼした瞬間、ピコンとバッグの中でスマホが鳴った。取り出すと、間もなくタクシーが到着します、という通知が届いていた。布団から僅かに覗く指にスマホを近づけその光で確認する。白い部分が二ミリほどで丸く整えられた綺麗な指だ。当然行成の指ではない。彼はギターをやっていた名残でいつも見ていて痛くなるほど深爪をするのだ。息を大きく吐くと、私はまた玄関に向かった。

 確かに玄関は行成の前住んでいた部屋に似ていた。でも、似ていただけでよく見れば靴棚の色も違うし、鍵の形状も違う。静かにドアを閉め、マンションを出ると、すぐ目の前に停まっていたタクシーに乗り込み、自宅近くの交差点の名前を告げた。

 

 お客さん? そろそろ着きますけど? はっとして目を覚ますとタクシーの中で、訳が分からなくなる。裕翔とのデートに向かっているところ、いや、自宅に向かっているところだろうか。外の雰囲気的に、会食に向かう時間帯ではなさそうだ。「あの、ここって」と言いかけた瞬間、見覚えのある交差点が目に入って「自宅だ」と気づく。

「あ、すみません、ここでいいです」

 アプリで決済をすると、タクシーを降りて交差点の角にあるコンビニに入った。ストロングを五本とハイボールを三本、あたりめとチーカマを入れてふらつきながらレジに向かっている途中、まるでアルコールを求めて徘徊するゾンビみたいだと思いついて鼻で笑う。

 でもゾンビとは言い得て妙だ。正常な思考が働いておらず、酒と男と仕事だけで一日が過ぎていく。常に上の空で仕事をしているから、来月刊行の新刊も改めてどんな内容かプレゼンしろと言われたらしどろもどろになりそうだ。私は完全に、全ての本性を見失っている。コンビニからマンションまでの道のりで、自転車に二人乗りしているヤンキーっぽい若者のカップルを見つける。信号待ちしている彼らの隣で立ち止まり、彼らをじっと見つめる。「だからあ、イッチーとオソロがいいのー」「やだよ恥ずかしいじゃん有りえないよオソロとか」「何でそんなこと言うの? 信じらんない」「だって、え、じゃあイロチにしてよせめてさ」「やだよ私も黒が一番かっこいいって思うもん」。天に昇りそうなほど楽しそうな会話をしている彼らを見て、「どうして私はこの世界を喪失したのだろう」という疑問に眩暈めまいがする。私もユキとこうだった。そして、こうであり続ける予定だったのだ。

 彼らが青信号を渡って視界から消えてしまっても、私はじっとそこに佇み、その場でストロングを開けて一本飲みきった。一緒にこの道を歩いていた行成の穏やかな顔が脳裏に蘇る。私は彼の顔が好きだ。それは決定的なことだ。外面への執着は、きっと内面への恐怖の表れで、外面を愛することによってのみ、私は男性の底知れない内面と向き合う覚悟ができる。行成は完璧だったのだ。そして今思えば完璧すぎた。彼の外面と内面のイケメンさを尊んでいた私は、予測すべきだった彼の内面の底知れなさを度外視していたのだ。立ち直ってもらいたい、救いたい、支えたい、そう思うけど以前の彼が立ち直っていて今の彼が立ち直っていないと思う時点で、私は救済者として失格なのだろう。私が予測していなかっただけで、今の彼だって百パーセント彼なのだ。昔の楽しかった頃を思い出してたまに泣くのは、まさに彼の外面が好きな私を象徴した行為だ。今ああして浮き彫りになった彼は、彼の内面そのもので、私はそれを「治したい」と思っているのだから。私の好きな彼は失われた。でも私の好きでない彼もまた彼で、そういうのは好きじゃないの、それだったらいらないの、と振るほどには私は強くなく、彼は彼だからどんな彼でも大丈夫と言えるほどにも私は強くない。ずっと呆然としたまま足を踏み出すことができなかったけれど、顔の周辺に季節外れの蚊の気配を感じて手で払うと、私はゼンマイを巻かれたおもちゃのように機械的に足を踏み出し始めた。

 帰宅すると、行成はベッドに入ったままだった。顔も見ないまま隣に横になる。今隣で眠っているのが裕翔でも行成でも構わない。私にとっては二人とも、何も満たしてくれない存在で、そういう意味では彼らはもう遜色ないのだ。

<第4回に続く>

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