【読む順番で世界が変わる1冊】前日には追い払った鳥を捕まえようとする男「眠らない刑事と犬」①/道尾秀介『N』

文芸・カルチャー

公開日:2021/10/5

道尾秀介氏が「読む人によって色が変わる物語をつくりたい」と挑んだのは、読む順番で世界が変わる1冊『N』(集英社)。 全6章を読む順番の組み合わせはなんと720通り! 本連載では、そのうちの1章「眠らない刑事と犬」の冒頭を全4回で試し読み。

N
『N』(道尾秀介/集英社)

 この街で五十年ぶりに起きた殺人事件だという。

 事件があった夜、一匹の犬が殺人現場から忽然と姿を消した。わたしはそれを必死に捜した。林の中を。街の中を。どうしても見つけなければならなかった。

 刑事としてではなく、一人の人間として。

 そうしながら、あらゆることを考えた。彼が隣家の夫婦を刺し殺した理由。その心に抱え込んでしまったもの。左腕に巻かれた白い包帯。事件の二週間前に彼が握った包丁。

 ただ一つ考えなかったのは、自分自身についてだった。

 

(一)

 家――男――わたし。

 その三つが一直線上に並んでから三十分ほどが経過していた。男の視線は家の二階あたりに向けられ、わたしの視線は彼の背中に向けられている。それぞれの距離は十メートルほどだろうか。

 街の北側、高台にある住宅地だった。湾を挟んだ南側よりも地価が高く、曇り空の下に建ち並ぶ家々はどれも高級感がある。さっきから男が見つめているその家も、戸建て住宅のコマーシャルに出てきそうな外観をしていた。シャッター付きのガレージ。白い塀の上に並ぶ、洋風の忍び返し。その向こうに大きなプラタナスが伸び上がり、枝には丸い実がたくさんぶら下がっている。まだ九月半ばを過ぎたばかりなので、実はどれも緑色をしていた。

 男の手に握られているのは、いわゆる高枝切りバサミ。

 ただの高枝切りバサミではなく、独自の改造が施されている。ポールの先端からY字状に、薄手のまな板と、虫取り網の先っぽが、それぞれ取り付けてあるのだ。ポールを斜め上に向かって突き出すことで、まな板はちょうど地面と平行になる。その状態で手元のハンドルを握ると、おそらく網がぱたんと下がり、まな板の上にいるものを捕らえる仕掛けなのだろう。

 捕らえようとしているのは、鳥に違いない。

 視線の先に、これから一羽の鳥が現れることを、彼は予想している。

 男を監視しはじめたのは昨日のことだ。昼近く、彼は事務所のあるテナントビルを出ると、大通りでバスに乗った。ウェストポーチだけを身につけ、キャップを目深にかぶって。男がバスを降りたのは、湾の北側にある港付近。迷いのない足取りで高台の住宅地へ向かうと、いまと同じように、この家を塀の陰から観察しはじめた。すると、しばらく経った頃、一羽の鳥が飛んできて庭のプラタナスにとまった。全身が灰色で、尾羽だけが赤い、大きなインコのような鳥。種類はわからない。

 鳥がとまったのは、二階の窓のそばに伸びた枝だった。それを見るなり、男はすかさずウェストポーチから拳銃を取り出して引き金を引いた。もちろん本物ではなくエアガンだ。放たれた弾は枝に当たり、鳥は驚いて飛び去った。男はすぐにその場を離れると、またバスに乗り、向かった先はホームセンターだった。買ったのは高枝切りバサミ、樹脂製のまな板、虫取り網、「鳥の餌・お米MIX」。それらを抱えて彼は事務所へ戻った。そのあとは夜まで張り込んでも出てこなかったので、おそらく事務所の中で、あの不格好な罠を作製していたに違いない。

 昨日はわざと鳥を追い払ったというのに、今日は捕まえようとしている。事情を知らない人が目にしたら、その行動は理解不能だろう。しかしわたしは、二日間にわたる尾行の末に確信していた。

 あの情報は、やはり本当だったのだ。

<第2回に続く>