「……嘘だろおい」ペット探偵の男ががくりとうなだれた理由「眠らない刑事と犬」②/道尾秀介『N』

文芸・カルチャー

公開日:2021/10/6

N (集英社文芸単行本)

著:
出版社:
集英社
発売日:

道尾秀介氏が「読む人によって色が変わる物語をつくりたい」と挑んだのは、読む順番で世界が変わる1冊『N』(集英社)。 全6章を読む順番の組み合わせはなんと720通り! 本連載では、そのうちの1章「眠らない刑事と犬」の冒頭を全4回で試し読み。

N
『N』(道尾秀介/集英社)

 男の名前は江添正見(えぞえまさみ)。年齢はわたしよりも十歳若い三十六。行方不明になったペットを捜すのが仕事で、古いビルの三階に「ペット探偵・江添&吉岡」という事務所を構えている。江添正見と吉岡精一の二人による共同経営だが、これまで調べた情報だと、ペット捜索を行うのはいつも江添一人のようだ。吉岡という男は、おそらく事務担当か何かなのだろう。

 わたしは生まれて一度も動物を飼ったことがないし、飼いたいと思ったこともないので知らなかったが、江添はペット所有者の中では有名な人物なのだという。事務所のホームページに「発見実績90%」とうたってあるが、じっさい彼に捜索を依頼すると、行方不明になった犬や猫はたいがい見つかるらしい。その実力は口コミで広がり、いまでは県外からの依頼も多くあるとか。

 江添の背中がぴくりと動いた。

 見ると、昨日と同じあの灰色の鳥が、いままさにプラタナスの枝に降り立つところだった。江添はマシンガンでも構えるように、高枝切りバサミを肩口に掲げ、腰を落として路地に出る。そのまま白い塀に肩をこすらせながら前進し、プラタナスのほうへと近づいていく。――いや、戻ってきた。まるで逆回しのように後退し、先ほどと同じ塀の角に引っ込む。

「ほれ、あすこ」

 声が近づいてきた。

「どこです?」

「あすこだっての、二階の窓があんだろ、その手前」

「あ、ほんとだ、いた」

 海へつづく坂道のほうから、二人の人物が現れた。白い短髪の老人と、高校野球部のユニフォームを着た男の子。男の子のほうが敬語を使っているので、祖父と孫ではないのだろうか。二人は何か小声で言い合いながら、あの家に近づいていく。

「……やっぱし、ここじゃねえか?」

 老人は口を半びらきにして、豪華な家を見上げる。

 わたしと江添は、別々の塀の陰からそれを覗く。

 やがて、驚くべきことが起きた。灰色の鳥がプラタナスの枝から飛び立ち、塀の外側に向かって急降下したかと思うと、高校生の肩にとまったのだ。

「……嘘だろおい」

 老人が自分のひたいを叩いて苦笑する。

 二人はその場で短いやり取りをし、やがて老人だけが、来た道を引き返していった。残された高校生は、鳥を肩にのせたまま、ぎくしゃくと身体を回し、門柱のインターフォンを押す。スピーカーから『あっ』と女性の声が聞こえた。玄関のドアがひらかれる音。高校生は門を開けて中に入っていく。

 ほどなく、ガチャリとドアが閉まる音がした。

 塀の陰で、江添の首ががくりと垂れる。彼はそのまましばらく動かなかったが、やがて舌打ちをすると、その場にしゃがみ込んで罠を縮めはじめた。栄養失調のように痩せた横顔が、不満でいっぱいになっている。

 いま目の前で起きたことが何なのか、遅ればせながら読めてきた。

<第3回に続く>

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