友達もできずバイトも続かず、生きる意味を見失っていた大学時代。救ってくれたのは深夜のラジオだった/アフタートーク

エンタメ

公開日:2021/10/13

アフタートーク

著:
出版社:
KADOKAWA
発売日:

 才能がない。社会になじめない。暗い。無駄に背が高い。服がダサい。腐っていたぼくに残るのは、ラジオへの情熱と無色透明の個性――。

「オードリーのオールナイトニッポン」「星野源のオールナイトニッポン」など、数々の名番組に関わった、オールナイトニッポン元チーフディレクター・石井玄(ひかる)さんの初エッセイ『アフタートーク』。 「ラジオ制作や会社員にまつわる仕事論」「学生時代にラジオに救われてから業界を目指すまでの道のり」など、ラジオへの情熱と志を余すところなくつづった10年間の集大成。ラジオファンのみならず、モチベーションを高めたい社会人、これから働く学生にも読んでもらいたい作品。

※本作品は石井玄著の『アフタートーク』から一部抜粋・編集しました。

アフタートーク
『アフタートーク』(石井玄/KADOKAWA)

深夜ラジオに救われた

 初めてラジオを聴いたのは、いつだっただろうか。小学校低学年のとき、母がリビングを掃除しながらラジカセをつけていて一緒に聴いた気がする。朧げな記憶。ぼくが生まれ育ったのは、埼玉県の春日部市という田舎。アニメ「クレヨンしんちゃん」の舞台になった街だ。

 埼玉県でラジオと言えば、NACK5だ。母もNACK5を聴いていた。「ステーションジングル」と「コンサートインフォメーション」の音は今でも聴くと懐かしい気持ちになる。小林克也さんの「FUNKY FRIDAY」の番組スタートが1993年の10月だそうだから、もしかしたらこれを聴いていたのかもしれない。ぼくは1986年生まれなので、そのとき7歳。全然関係ないけど小林克也さんは誕生日がぼくと同じ3月27日なので勝手に親近感を抱いている。特番のADとして番組をご一緒させていただいたとき、ラジオパーソナリティとしての高い技術とテンションの高いトークに度肝を抜かれた。オールナイトニッポンが50周年で、「放送人グランプリ2018」で準グランプリをとったとき、小林克也さんも別の表彰でいらっしゃって、ご挨拶をさせていただいた。誕生日が同じなんですとは言えてない。

 

 その次のラジオの記憶は、小学校高学年くらいのとき。ニッポン放送「田中麗奈ハートをあげるっ!」だ。女優の田中麗奈さんがパーソナリティ。ファンだった。当時「なっちゃん」のCM以外ではほとんど見ることが出来なかったため、兄から譲り受けたラジカセにかじりついて聴いていた。同じころに好きだったのは、ゆず。ゆずもTVの出演が極端に少なく、ラジオに行きついた。ぼくはサッカー部の朝練があったので遅くまで起きていられず、深夜放送の「ゆずのオールナイトニッポン」をちゃんと聴いたのは数回程度だが、ゆずのお二人の声をラジオで初めて聴いて興奮したのを覚えている。後継番組の「ゆずのオールナイトニッポンGOLD」でADを何度か担当した。

 ファンであったことは隠している。初めて自分の名前が入ったキューシート(進行表)は今でも持っている。のちに、自分がディレクターを担当していた「back numberのオールナイトニッポン」のゲストにゆずのお二人がいらっしゃったときは「ゆずが俺のキューで喋ってるよ、すげーな!」と、人一倍感動した。あのとき、生ゆずに興奮して(清水)依与吏さんの話、全然聴いてなかったです。依与吏さん、ごめんなさい。

 

 間が空いて、また聴くようになったのは高校2年生。埼玉県立春日部高等学校。男子高。昼休みが2回ある謎のスケジュールの学校だった。一昼、二昼と呼ばれる昼休みを効率良く過ごすのが春日部高校の生徒、春高生にとっての永遠の課題だった。一昼でさっさと昼ご飯を済ませ、残った時間で次の授業の予習、二昼では英単語帳を開き、試験に向けて準備をするのが模範生の過ごし方だ。県内有数の進学校なので、そういう生徒も確かにいた。一昼は先生の目を盗んで、学校外で友達と昼食を食べ、次の授業に遅れる、二昼は屋上に行って寝て過ごすというようなイケてる奴の過ごし方もある。ぼくはと言うと、母が作ってくれた二段弁当を自分の席で食べて、残った時間はマンガを読んで過ごす、というのがほとんどだった。一番左前の席で前の棚にマンガを並べて貸し出していた。男子高に席替えはないので、一年間ずっと同じ席になるから、棚を私物化していた。

 

 いつものように一昼でお弁当を食べていると、隣の席の岡田くんの様子がおかしい。岡田くんは、岡ピーの愛称でみんなに好かれている明るく楽しい子だった。岡ピーはイヤホンをつけて、お弁当を食べていた。音楽や英語の発音集を聴きながらご飯を食べる人もいるので、その類だと思っていたが、時折笑ったりご飯を吹き出しそうになったりしている。かなり変だ。何を聴いているか尋ねると、ラジオだという。TBSラジオ「爆笑問題カーボーイ」をMDに録音して聴いていたのだ。

「ボキャブラ天国」を見ていたぼくは、爆笑問題の大ファンだった。爆笑問題がラジオをやっていることを知らなかったぼくは、その日、岡ピーにお願いをしてMDを借りた。家に帰って早速聴いてみると、めちゃめちゃ面白い。トークだけでこんなにも面白いのか。それから自分でも聴くようになり、岡ピーと放送の感想を言い合うようになった。学生時代、ラジオを聴いている友達は彼だけだった。岡ピーとラジオについて話すのが一昼、二昼の過ごし方になった。でも、毎週欠かさず深夜の生放送を聴いているというほどではなかった。

 

 深夜ラジオにどっぷりつかったのは大学生のころだ。東京の明治大学に合格し、春日部から1時間半かけて通うことになった。遠い。高校へは自転車で片道8分で行けたのに、それが往復3時間。満員電車に乗ることもあり、田舎から出たことのなかった自分にとっては苦痛でしかなかった。

 大学には女の子がいた。男子高で3年間を過ごしていたぼくは、女の子と全く喋れなくなっていた。中学生のころは普通に喋っていたのに! もちろんゴリゴリの童貞だった。勇気を出して、サークルの新歓コンパに参加してみたが、全く楽しくない。一ミリも面白くないことを言っているのに、それに笑う男女を見て絶望した。最初の自己紹介以外一切言葉を発さず、新歓コンパは終了。以降一度も参加することはなかった。

 サークルに所属せずにいると、友達がほとんど出来ない。友達がいないと大学に通うのはかなり辛い。みんなが誰かと楽しく談笑している中、自分一人でいると奇妙な生き物に思えてくる。一人でいるところを見られたくないから、学食には行けなくなる。授業を一人で受けていると思われたくないから、授業に出なくなる。ぼくは、徐々に大学に行くことが出来なくなっていった。それならバイトだ! バイトに打ち込めばいいんだ! とトライしてみるが3日と持たない。餃子の焼き加減を注意されてやる気をなくして辞める。大きな声で挨拶をするように言われ、それが嫌で辞める。自分から電話して申し込んだのに、面接が面倒になり行かなかったこともある。ひどい有様だ。人とコミュニケーションをとることが極端に苦手だった。

 

 世界が色を失っていく。誰とも話すことがなくなっていった。ついに大学へは行かなくなった。親には学校へ行っていると思わせたいので、とりあえず家は出る。唯一の収入源は、母親から毎朝もらうお昼ご飯代の500円。その500円で毎日文庫本を1冊買っていた。電車に乗り、文庫本を読みながら1時間半かけて大学に向かう。明治大学がある京王線の明大前駅に着くと改札を出て、すぐにまた改札に入る。そして帰りの電車に乗り、残り半分を読む。地元の春日部駅に着いたら、また大学に向かう。文庫本を読み終わったら、外を眺めたり、寝たりして時間を潰した。2往復もすれば家に帰れる時間になった。そんな日々だった。

 夏休みになると、家にずっといた。ようやく大学に行っているフリをしなくて済む。バイトもサークルもない大学生にやることなど一切ない。お昼ご飯代を貯めてDVDを借りた。当時のレンタルDVD店は1000円で10本借りることが出来た。2日お昼ご飯を我慢すると10本のDVDを見ることが出来る。3本洋画、3本邦画、2本お笑い、2本AVの割合だ。現実とは違う世界に行ける。

 2004年はアテネオリンピックの年だった。深夜は中継をかじりついて見ていた。このオリンピック、日本勢は大活躍だった。柔道の野村忠宏選手の3大会連続金メダルに始まり、水泳平泳ぎの北島康介選手、ハンマー投げの室伏広治選手など金メダルの連発だった。中でも体操男子団体の金メダル獲得の瞬間はとても感動した。あの名実況、「伸身の新月面が描く放物線は、栄光への架け橋だ」も生で(TVで)見ていた。

 アテネオリンピックが終わると完全にやることがなくなった。アテネ時間で昼夜逆転の生活になっていた。深夜に途方もなく長い時間がある。何をするわけでもなく深夜を過ごすのは精神上良くない。自分が生きている意味を問いただしてしまう。

 

 死のうかな。軽はずみに思った。生きている意味などないのだから、死んだって同じだ。深夜にフラフラと外に出て散歩してみたり、近所の一番高いマンションに登ったりしたこともあった。飛び降りる勇気などないのに。

 そんな状況で、ふと聴かなくなっていた深夜ラジオを聴いた。月「伊集院光 深夜の馬鹿力」、火「爆笑問題カーボーイ」、水「雨上がり決死隊べしゃりブリンッ!」、木「ナインティナインのオールナイトニッポン」、金「極楽とんぼの吠え魂」。

 そこからどっぷりハマっていった。深夜ラジオが好きになると忙しくなる。昼間は、当時インターネット上にアップロードされていた過去の音源を聴き漁った。中でも「伊集院光 深夜の馬鹿力」は上がっている音源をすべて聴いた。パーソナリティたちは、毎週本当にくだらない話をしていた。リスナーからもくだらないメールが届く。そのどれも面白くて笑えて、自分が悩んでいることなどどうでもいいと思えてきた。伊集院さんは、過去の自分の失敗談をたくさん話してくれた。「話してくれた」と言っている時点で勘違いも甚だしいのだが、当時は自分に話してくれていると本気で思っていた。学校に行けなくなったことや、死にたいと思っていた過去、今も小さなことで悩んだり怒ったりしている、と話していた。漠然と「死にたい」と思っていた自分に、「こんなにくだらないことを言っている大人もいるんだから、君も生きていていいんだよ」と言ってくれたように感じた。「死ぬな」と言われても響かない。でも、「生きていてもいい」と思えると、これ以上なく救われる。爆笑問題の太田さんも、自分たちがいかにダメだったかという話をしてくれた。ぼくに言っているとしか思えなかった。多分違う。伊集院さんも太田さんも。でも、そう思っちゃったんだからしょうがない。

 ぼくは、ラジオを聴くことで徐々に前向きになっていった。「伊集院光 深夜の馬鹿力」で一番救われたコーナーは、「リストカッターケンイチ」。些細なことですぐにリストカットをして(一本いって)しまう、ケンイチくんのエピソードを紹介するコーナーだ。それを聴くと自分が死ぬことを考えるのがバカバカしく思えた。自殺する若者を救うためのコーナーだったのでは? と勝手に思っている。来週の放送が楽しみになる。次回の放送を聴くために死ぬのをやめようと考えるようになった。番組がある限り生きていよう。夏休みが終わってもラジオは聴き続けた。大学には相変わらず行かないけど、電車で録音したラジオを聴いていた。ぼくにとってラジオは最高のエンターテインメントだった。

 以来、今に至るまでラジオを聴き続けている。ふと、仕事で失敗したり、誰かに心ないことを言われたり、言ってしまったりして、自分には価値がないと思うこともある。だが、こんなクソみたいな人間でも「生きていてもいい」と思うことにしている。ダメでもクソでもどうしようもなくても、「生きていてもいい」と、今もラジオから聴こえるからだ。

<第6回に続く>

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