七月隆文『100万回生きたきみ』/特別試し読み #1『プロローグ』

文芸・カルチャー

公開日:2021/10/13

 少しして、彼がやってきた。

 こちらを見て浮かべた軽くて心地よい表情と、歩く姿の雰囲気。モテそうだと改めて納得する。

「なに? どうしたの?」

「んーべつに。いいっしょ?」

「いいけど」

 ハルカとやりとりして、向かいに座る。二人は今もよく話しているだろうことが伝わってきた。

「三人揃うの、懐かしくない?」

「たしかに」

 ハルカの言葉に、三善くんがうなずく。

「いつぶりだっけ」

「公園で遊んでたとき以来だよ、たぶん」

「マジかー」

 三善くんが広い背をイスにもたれさせ、すらりとした足を踵に引っかけて組む。

「まあ、アメ食いなよ」

 ハルカがブレザーのポケットからアメを取り出し、二人に配る。

 袋を裂いて口に入れると、ハルカっぽい甘く澄んだ味がした。

「光太って今、彼女いないよね?」

「いないけど」

「なんで? めっちゃ告られてんじゃん」

 アメが梅干しに変わったように、三善くんが唇を締める。

「……めっちゃってほどじゃ」

「ぜんぶ断ってるよね。なんで?」

「なんでって」

「好きな子いるとか」

 あはは。彼が笑い飛ばす。ノーコメント。たぶんいるのだろう。

「美桜もモテんだけどさ」

 ハルカが美桜の肩に手を置く。

「ああ、付き合ってるんだっけ」

「昨日別れたんだって」

 三善くんがリアクションに迷う表情をした。

「んじゃあたし、行くわ」

 ハルカががたんと立ち上がる。

「おい――」

「ごめんごめん、約束あって」

 わざとらしく昔に流行ったてへぺろをして、猫みたいな足どりで校舎へ向かう人波に交ざっていった。

 二人残され、テーブルが広くなった。

 ハルカらしい雑なフリだと美桜は思う。

「なんか、あいつらしいな」

 三善くんも同じ感想らしい。

「いろいろ自由でさ。ちょっと心配なとこあるけど」

 妹を案じる兄の面持ちをする。もし彼がきちんと言えばハルカは素直に聞くだろうなと、なんとなく思った。

「元気か」

「うん」

「俺も元気」

 彼が笑みながら頰でアメを転がす。きっと同じ甘い匂いがしているだろう。

 校庭の賑わう音が少し変わった気がする。もうすぐ昼休みが終わるのだろう。どうしてか、ちょっとした響きや空気の感触でわかるときがある。

「彼氏となんで別れたの?」

 普通の感覚ならば、何をどのくらい話すべきか迷うだろう。それは相手にどう思われるかを気にするからだ。

 でも美桜はもう捨ててしまった。その心のありようは生きていく上でいちばん負担になるからだ。

「キスをされたら別れたの」

 だから淡々と、推敲もなく言う。

 三善くんは畑からそのまま抜いてきたような言葉の扱いに困っているふう。

「……安土さんが嫌がってたから?」

「ちがうよ。私は別にいいからじっとしてた」

 枯れ木のように静かに。

「彼が抱きしめてきて、体がすごく熱くて、したいのかなって思った。でもずっとそのままで苦しかったから『したいの?』って聞いたの。『別にいいよ』って。そしたら……」

 急に彼が離れて、なんだかひどく裏切られたような、汚いものを見る顔をしたのだ。

 けれど美桜にとってそれは、幾重にもかさねた磨り硝子の向こうの出来事のようで。心が揺らぐことはない。

「なんでそう言ったの?」

「いいからだよ」

 前を向いたまま、磨り硝子の景色を映しながら。

「もし三善くんもしたいなら言って」

 ふいに――雨の降った気配がした。

 美桜は空を仰ぐが、何ごともなく青い。数秒見張っても、粒は落ちてこない。

 錯覚だったろうか。

 視線を戻したとき、隣の三善くんが顔を背けていることに気づく。急にそうしたような不自然な体勢だ。

「どうしたの?」

「あー、なんでも」

 彼が目許を手で覆い、中指の腹でまぶたを横一線にこする。

「そろそろ予鈴鳴るな」

 彼が立ったとき、合わせたようにチャイムが鳴った。

「行くな」

 片手でひらりと挨拶し、校舎へ続く渡り通路に向かっていく。

 こちらに一度も顔を見せることなく。

<第2回に続く>

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