音から発生した間違い/月夜に踊り小銭を落として排水溝に手を伸ばす怪人③

文芸・カルチャー

公開日:2021/12/19

 周囲になじめない、気がつけば中心でなく端っこにいる……。そんな“陽のあたらない”場所にしか居られない人たちを又吉直樹が照らし出す。名著『東京百景』以来、8年ぶりとなるエッセイ連載がスタート!

 自戒を込めて書く。

 昔の話だが、「藪遅くにすみません」と知り合いからメールが届いた。「藪遅くに」の部分がどういう意味なのかわからなかったが、声に出してみると「やぶおそくに」となるので、おそらく「夜分にすみません」という意味だと理解できた。

 メールを打ち間違えてしまったのだろう。それにしても「藪遅くに」とは意味深で恐ろしい言葉だ。草木が雑然と生い茂る場所が遅いとはどのような状況なのだろう。草木の成長が遅いことを謝っているのか、それとも歩いてそこを抜けるのに時間が掛かってしまうことを謝罪しているのか。そんなことを謝る立場にあるのは藪の総大将のような存在くらいだから、「藪遅くにすみません」と送ってきた主は富士の樹海かもしれない。

 打ち間違えなどは誰にでもある。私もかつて携帯電話で短い文章を書いていた時、「普段よりも1オクターブ高い声で」と書かなければならないところを、「1億ターブ」と誤変換したまま編集者に送ってしまった。1億ターブなんて言葉は無いし、あったとしても最早人間が出せる声の高さではないだろう。このような間違いはよくあることだし、本人も送信ボタンを押した後で気付き後悔しているかもしれない。本人が自覚している間違いをわざわざ指摘する必要はないので忘れることにした。

 しかし、恐れていたことが起きた。再び、同じ人から「藪遅くにすみません」というメールが送られてきたのだ。そして、その後にも「藪遅くにすみません」というメールが繰り返し送られてきた。その人が思い違いをしているのか、それとも独自の方針があってそういう表現を使っているのか定かではないが、最初に指摘しなかったことを後になって言うのも難しく、富士の樹海に謝罪されているような感覚を何度も味わうことになった。

 相方の綾部祐二はキーホルダーのことを、ずっと金ホルダーだと勘違いしていたそうだ。「シルバーのやつもさ、金ホルダーって言うから不思議だったんだよ」と綾部は無邪気に語った。そんな相方に、「さすがにそれは嘘だろ?」と指摘されたのは、ニコラス・ケイジのことを私がニコラス刑事だと勘違いしていたことだ。ニコラス・ケイジという俳優ではなく、『刑事コロンボ』のような、『ニコラス刑事』という作品があると思い込んでいたのだ。

 それと比べれば、「藪遅くにすみません」などは、字面を確認せず音でしか聞いたことがなければ間違えても不思議ではない。

 それに「藪遅く」という状態を、「真夜中の藪」と解釈すれば、それほど真っ暗な闇が支配する時間に連絡などして申し訳ないということわざのように思えなくもない。いずれにせよ、音だけでその言葉を理解しようとするとそのような間違いが起きてしまうという教訓になった。

 音から発生した間違いは笑って済ませることができるが、一方で正しく意味を理解せずに使われた言葉が誤解を生んでしまうと、相手に悪気はないと理解できても心の奥底にわだかまりが残り続けてしまうことがある。

 たとえば、「おませ」という言葉。年齢と比較して大人びているという意味で使われる「ませる」から派生した言葉だろうか。時と場合にもよるが、大人が子供に使う分には有効かもしれないが、年少者に使う時であっても若干相手を軽んじている表現であることは忘れてはいけない。余程、気心が知れた関係性でようやく使用が許される言葉だろう。

 そんな、「おませ」という言葉を、「おませな」という形で多用する人がいた。

 以前、私が知り合いに呼ばれてバーに行った時のことだ。「良い雰囲気のお店ですね」と私が言うと、なぜかその人が私の言葉を受けて、「おませな」と言った。お店の内装や雰囲気に対して、「おませな」と言っているのであれば、大変失礼な表現になってしまうので怖かった。なんとか、その「おませな」という言葉の印象を消すために、「内装もすごく素敵ですね」と私が言うと、またその人が「おませな」と言う。「おませな」の使い手は三十歳前後の方だったが、バーのマスターは初老の男性である。私はマスターが怒りださないか気が気でなかった。なんとかマスターの気を逸らすために、「こんな珍しいお酒があるのですね」と本当は過去に二回ほど飲んだことがある酒瓶を指さした。すると、その人がまたなぜかしゃしゃり出てきて、「おませー!」と一人で叫びだした。ボタンを押しても止まらない爆音の目覚まし時計のような恐ろしさがあった。私が音楽の話をしていても、小さな声で「おませ」「おませ」「おませ」と「おませ」で相槌を打ってくる。

 もしかしたら、その人は「おしゃれ」というニュアンスで「おませ」という言葉を使っているのかもしれないが、私は徐々に自分の顔が歪んでいくのがわかった。中年が仕事終わりで店に集まり酒を飲むという行為に、「おませ」などという言葉は不要なのだ。すべてが身分不相応というなら、私はなにをしている時なら「おませ」地獄から抜け出せるのか。意味もわからず他者を不快にする言葉を使い、その場に流れている微妙な雰囲気も読み取ることができずに、まるで良いアイテムを入手したかのように、「おませ」と連呼する生きもの。

 頼むから黙ってくれという言葉が出そうになったが、なんとか堪えた。おませ人間がようやく帰った頃には、体力の限界を迎えていた。マスターもさぞストレスが溜まっていることだろうと思っていたら、マスターは「おませ」の人について、「いい人ですね」と言った。我が耳を疑った。だが、これが本当の大人なのだろう。雰囲気を読み違えていたのは自分なのかもしれない。私はずっと「おませ」だったのかもしれない。だけど……。

 最早、なんの酒だかわからないグラスに引っ掛かったレモンを強く絞った。

(ここで掲載する原稿は、又吉直樹オフィシャルコミュニティ『月と散文』から抜粋したものです)

<次回は1月の満月の日、18日の公開予定です>

あわせて読みたい

又吉直樹(またよしなおき)/1980年生まれ。高校卒業後に上京し、吉本興業の養成所・NSCに入学。2003年に綾部祐二とピースを結成。15年に初小説作品『火花』で第153回芥川賞を受賞。17年に『劇場』、19年に『人間』を発表する。そのほか、エッセイ集『東京百景』、自由律俳句集『蕎麦湯が来ない』(せきしろとの共著)などがある。20年6月にYouTubeチャンネル『渦』を開設