大学生から社会人になる時だけ個性が問われ、社会人から先はもう二度と個性を問われることもない。/真夜中乙女戦争④

文芸・カルチャー

更新日:2022/1/25

1月21日より公開中の映画『真夜中乙女戦争』。原作は、10代・20代から絶大な支持を集める新鋭作家Fによる初の小説『真夜中乙女戦争』(KADOKAWA)だ。名言だらけ、とSNSで拡散され続ける本作より、本連載では、「第一章 星にも屑にもなれないと知った夜に」と「第二章 携帯を握り締めても思い出はできない」を全5回で紹介。映画とあわせて「最悪のハッピーエンド」を確認しては?

真夜中乙女戦争
『真夜中乙女戦争』(F/KADOKAWA)

 東京に住み始め、大学に通い始めてから十日以上経つ。この間、私は一睡もできていない。眠気が私か私が眠気か、もう分からなくなってくる。イヤフォンを付けても、音は遠過ぎたり近過ぎたりする。適切な距離が分からなくなるのだ。救急車のサイレンのように、世界は私に急接近し、あっという間に去って行く。私が掴むことができるのは、そのサイレンの残響だけだった。

 新宿の四月は眼球を突き刺す陽気をそこら中に放っている。講義棟を出ると、早くも無様に散り始めた桜が私の正面にあった。桜全般が年々白く見えるのは酸性雨のせいか、それとも私の目が色の見分けに鈍くなったためか、あるいは逆に、色そのものにこの目が鋭敏になり過ぎたからなのだろうか。

 私が誰かと同じ色を同じように見ることなど、永久にありえないことのように思われる。

 

「おまえ、やってることがソクラテスと同じやんけ、気色悪い。甘えやがって、あほかいや。ソクラテスよろしく毒かなんか飲んで死んどけや」

 それでも十六号館前のベンチには、何年も見慣れた一人の男の顔があった。

「いや、でもよくドラマで仕事しとる先輩が新人に、なんやおまえ使えへんなとかいうシーンあるけど、なんも知らん新人をうまいこと使われへんおまえの責任やろって思わへんか。それを言語化して伝えられへんおまえの責任やん、黙ってても察して欲しい、みたいな厄介な元カノみたいなこと言うなやって感じやん。伝えへんと伝わらんわけやん」

「ドラマの見過ぎじゃボケ。大体、大学と仕事は違うやろ。教授は職名に教えるって書いてあるけど、教えるのが仕事じゃないんだよ、そもそも。研究するのが仕事。おまえは他人に期待し過ぎ。まずそれやめろ。自分で勉強したいことくらい自分で探して、独学でなんとかしろ。言ってることは正論なのになんでおまえの場合こんな気色悪いことになるんだよ。それにしてもこの校舎ほんまボロいな」

 佐藤が吐き捨てた通り、十六号館は本キャンパスの中で最もみすぼらしい佇まいをした校舎だった。さっさと倒壊すればいいと思いながら、私もその校舎を見上げ、髪色が変わった佐藤に視線を戻し、ほとんど途方に暮れそうになる。

「てかおまえもおまえで、なに茶髪にしとんねん。しかももう東京弁になってもうてるやん」

「東京の奴と一緒にいると、標準語うつっちゃうじゃん」と佐藤が照れながら答える。

「じゃん? チャラチャラしやがって。死ね」

 ……私と同じ神戸の仕様もない男子校から、この春、政治経済学部に推薦入学した佐藤は、高校三年生の秋にはすでに運転免許のみならずスキューバダイビングのライセンスを取得していた。冬、センター試験対策や二次試験対策の授業が本格化する頃には、廊下側の席で一人、彼はずっとトルストイやドストエフスキーや村上春樹を読んでいたのを覚えている。五教科七科目を叩き込まれたのに、受験に五教科七科目も必要とされていないこのW大学に進んだのは、百数十人いた同期の中で私と彼だけだった。六年間も同じ場所にいて同じ部活にもいたのに、私たちの共通点なんて結局同じ場所にいたということ、ただそれだけだった。

「とりあえず現実でクソリプすんな、死人出るぞ」

「クソリプをクソリプと言うのもクソリプやろ。おまえは一生まとめブログの記事でも音読して一人でウケとけや」

 どうでもええわ、てか腹減ったし、W弁当行こ、という佐藤に連れられ、大学構内を出た。

 キャンパスの真ん中を颯爽と歩く佐藤の服装を後ろからまじまじと眺める。無地のニットから白いTシャツが飛び出ていて、黒いスキニーデニムの下には制服で会っていた時には見たこともない、使い古した、かといってみすぼらしくないニューバランスのスニーカーを履いている。周りを見渡せばそんな無菌な格好の男は山ほどいた。思えば男に個性は必要ない。こんな男が求めるような女も、そんな女が求めるような男も、個性なんて必要とされていない。小中高大と個性なんて必要とされず、大学生から社会人になる時だけ個性が問われ、社会人から先はもう二度と個性を問われることもない。無難という膜で一人の人間を覆えば、きっと誰もが、この姿を選ぶ。そしてそうすることはきっと、生存戦略として正しい。賢いのだ。

 なすからにしとけ、なすからに、という佐藤を無視して、唐揚げ弁当を頼むと、ひどく脂ぎった肉の塊がプラスチックトレーに詰め込まれて出てきて、これほんまにあの鶏の唐揚げなんと佐藤に訊くと、おまえは鶏の唐揚げにもW弁当の店主にも謝れ、あと大学の伝統にも謝れとあしらわれた。茶髪になったおまえはドストエフスキーに土下座しろ、とは言わず、先ほどの教授もどこかで昼ご飯を食べているのだろうかと一瞬考えたが、先ほどの私との会話など、どうせ彼女はもう忘れているだろう。

 講堂前の石段には、私たちの他にも無数の学生が腰掛けて、浮ついた四月の正午らしい喧騒、その当事者となっている。時に、黒々とした蝿が一匹、白米に向かって飛んでくるのを割箸で振り払えば、その蝿は佐藤の背中に止まった。それに気づかない佐藤は唐揚げと白米を頬張り、脂まみれになった口元を袖で拭いながらペットボトルの生茶を喇叭飲みし、通りを歩く大学生の姿を舐め回すように見ている。「てか、おまえさ、充電器って持ってる?」「持ってない。仮に持ってても、おまえみたいなやつには貸さない」「あっそ」と答える彼の携帯には、確かに先ほどからひっきりなしに誰かからの通知が来ている。本当は持っていた。が、朝には一〇〇パーセントだったはずの私の携帯の電池残量は、三二パーセントになっていた。ウィキペディアで「八甲田雪中行軍遭難事件」「地方病」「詭弁」の記事を一限から読み耽っていたせいだ。教授の講義より、これらの記事の方が何万倍と面白い。

 教室の最後尾の座席は大抵電源が近い。が、その席は、講義が始まってもいつまでも私語をやめないタイプの学生たちが毎回陣取ることを通学初日で私は知った。

「もう俺は卒論書く日まで三年くらい寝ててもフル単確定やわ。楽単ばっかでさ。まあそんなこと絶対せえへんけどな。新歓で良さそうなサークル見つけたし夕方はバイトの面接やねん。っても顔合わせだけやけど。カテキョと、フジテレビで受付するバイトもやることにしたわ。カテキョ日給一万やで。今期の試験の過去問くれる神みたいな先輩も見つけたし行きたい企業狙っとる先輩も何人かいたし。あとすっげえ良い感じの広研の美人にも狙いつけれたし。早よヤリたいわ。もうそれしか考えてない、最近。ヤッたらおまえにも報告したるわ。てか今度なゴールデン街に遊びに行こう思うねんけど、来る?」

 私の前では、佐藤は関西弁を一時的に取り戻すらしい。

「ゴールデン街におまえが行きたくても、ゴールデン街はおまえに来て欲しくないやろ」

「あ、もしかして、羨ましいんか」

 蝿はまるでブローチのように、佐藤の背中にとどまり続けている。

「羨ましいと人は怒る。怒るのは甘えてるから。他人に期待してるからなんやで」

「おまえも未成年飲酒で、その美人と先輩丸ごとご指導くださいって大学総長と新宿警察署に通報しといたろか」

<第5回に続く>

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映画『真夜中乙女戦争』
1月21日(金)全国ロードショー
原作:F『真夜中乙女戦争』(角川文庫) 脚本・監督・編集:二宮健 出演:永瀬廉、池田エライザ、柄本佑ほか 配給:KADOKAWA
東京で一人暮らしを始めた大学生の“私”(永瀬廉)は、やりたいことも将来の目標も見つからない中で、いつも東京タワーを眺めていた。そんなある日、「かくれんぼ同好会」で出会った不思議な魅力を放つ凛々しく聡明な“先輩”(池田エライザ)と、謎の男“黒服”(柄本佑)の存在によって、“私”の日常は一変。そして“私”は、壮大な“東京破壊計画=真夜中乙女戦争”に巻き込まれていく。

(C)2022『真夜中乙女戦争』製作委員会


公式サイト:https://movies.kadokawa.co.jp/mayonakaotomesenso/