アメリカの社会運動とフォーク/ みの『戦いの音楽史』

音楽

公開日:2022/3/9

みの

 第5回で紹介したように、1960年代の音楽界ではビートルズが躍進し、その存在感を見せつけました。一方で、同時代のアメリカでは社会運動の高まりとともに「フォーク」も注目を集めます。まずは、アメリカにおけるフォークの歴史から振り返ってみましょう。

ヨーロッパ移民が持ち込んだ「フォーク」

 黒人奴隷たちの強制移住に先駆けてアメリカ大陸へ移入したのが、ヨーロッパ人たちです。1492年に探検家クリストファー・コロンブスがアメリカ大陸を“発見”してから、約200年にわたって多くのヨーロッパ人が大西洋を渡り、交易所や植民地を築きました。

 「フォーク」は、ヨーロッパ各地からの移民たちがそれぞれ持ち込んだ音楽と、土着の音楽が混ざり合ったものです。口承で受け継がれてきたため、ほとんどが作者不詳です。

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 フォークは、白人たちだけの音楽というわけでなく、黒人たちも歌っていました。レッドベリーは、その一人です。フォークの数多くの曲を知っていて、歌うことができた彼はまさに“フォーク事典”のような人物でした。

 フォークだけでなく、ブルースやゴスペルなども歌うことができ、“生きるジュークボックス”とも称されています。また、12弦ギターが上手く、ピアノ、マンドリン、ハーモニカ、ヴァイオリン、アコーディオンも演奏しました。

 レッドベリーが有名になるきっかけは、アメリカの民謡を残そうとフィールドワークで民謡収集をしていた、アラン・ローマックスに見出されたためです。1933年、殺人未遂罪で服役中だったレッドベリーは、アランと、その父ジョンと出会います。

 ローマックス親子は、彼にフォークを演奏してもらって数多くの曲を録音することに成功します。これは、口承で伝わってきたフォークが、ついに音源というかたちで記録された偉大な出来事といえます。

 後のロック史においても、レッドベリーは最重要人物で、彼の音楽はのちにピート・シーガー、ウディ・ガスリー、ボブ・ディランに影響を与えていきます。

政策によって、音楽採集がさらに加速する

 1929年、“暗黒の木曜日”の株価暴落に始まった世界恐慌の後、ルーズヴェルト大統領は経済危機による不況を克服するために、ニューディール政策を行います。1930年代に展開されたこの政策は、金融だけでなく、文化的プログラムもありました。

 その背景には、第一次世界大戦終戦以降の国際社会におけるアメリカの地位上昇があります。“ヨーロッパの辺境”だったアメリカが、大戦で疲弊したヨーロッパに代わって、国際政治の中心に躍り出て存在感を強めていきます。

 近代国家として国をまとめ、国際的地位を確立しようとするとき、政治は時として文化的アイデンティティを必要とします。ニューディール政策では、アメリカ社会特有の文化を洗い出す趣旨で、連邦作家計画、連邦劇場計画、連邦音楽計画といったプログラムが行われました。

 音楽の分野では、多くの研究者や愛好家が地方に派遣され、フォークやブルースの曲を採集します。すでに議会図書館には民謡の管理、保存をするアーカイヴが設置されていましたが、民俗音楽研究家だったジョン・ローマックスがこのアーカイヴのディレクターに就任した1932年以降、収集活動はより活発となりました。

 ローマックス親子はイングランドをルーツにもつ移民です。白人と非白人で公共機関での座席が区別され、使用できるトイレも別だった当時、白人が黒人のコミュニティに出向き、黒人の音楽を求めるというのはかなりめずらしいことでした。ローマックス親子が残した録音は、当時の黒人たちがどのような“音色(おんしょく)”を奏でていたかを知れる貴重な資料といえます。

アラン・ローマックス
フィールドレコーディングを行うアラン・ローマックス(左)
出典:Indiana University Libraries Moving Image Archive

社会運動とフォーク

 1960年代、アメリカ社会の大きなうねりとして挙げられるのが、公民権運動とベトナム戦争への反戦運動といった、社会運動です。

 公民権運動は、マイノリティへの差別の撤廃や法の下の平等、市民としての自由と権利を求める社会運動のこと。1954年、半世紀以上にわたって行われていた教育機関における人種隔離政策が廃止され、これを機に公民権運動は盛り上がりを見せ始めます。

 1955年には、アラバマ州でモンゴメリー・バス・ボイコット事件が発生。モンゴメリーの市営バスの黒人席に座っていたローザ・パークスが、白人に席を譲ることを拒否したために逮捕され、これに抗議する路線バスへの乗車ボイコット運動が広がります。利用者の大半を占めていた黒人たちが利用しなくなったことで、市のバス事業は経済的に大打撃を受けることになりました。

 この運動を組織したのが、キング牧師の名で知られるマーティン・ルーサー・キング・ジュニアです。キング牧師は、非暴力主義を掲げて抵抗運動を展開します。

 1957年、アーカンソー州の公立高校では9人の黒人学生が白人学生から入学を妨害される、リトルロック高校事件が起こります。暴徒化した事態を収拾するために、アメリカ陸軍まで派遣される事件となりました。1960年には、ノースカロライナ州で黒人大学生による“シット・イン(座り込み)”が行われるようになります。飲食店の白人専用席に座って、注文に応じてもらえるまで座り続けるというもので、これは各地に広がりました。

 そして、リンカーン大統領による奴隷解放宣言から100年にあたる1963年、首都ワシントンで政治集会「ワシントン大行進」が行われます。ケネディ大統領が提案した公民権法の成立を求めた集会で、黒人たちだけでなく、リベラルな白人たちも加わり、二十数万人の大群衆となります。ここでキング牧師が行った「I have a dream(私には夢がある)」から始まる演説は、名演説として知られています。

 1960年代のアメリカ社会に大きな影を落としたベトナム戦争の激化と長期化も、新たな社会運動の渦を生みます。アメリカ兵の犠牲も1965年から69年の4年間で3万人を超え、テレビでは生々しい戦場の様子が映像で報道され、国民のあいだに不安感と政府への不信感が漂います。

 こうしたなかで政府と軍に対する反発から、徴兵の対象となる学生を中心に、戦争批判が大きく広がります。この時流は、知識人やジャーナリストの活動によってさらに高められていきました。

 ベトナム戦争は、初めてリアルタイムにメディアで放送された戦争です。そしてベトナム反戦運動は、戦争当事国内で行われる運動としては、前例のない規模となり、反戦と平和を訴える運動は世界各国へと広がります。また、ベトナム反戦運動に立ち上がった学生たちは、大学とも対立するようになり、大学改革を求める学生運動も広がっていきます。

フォークの再燃

 こうした運動にかかわる若者たちが聴いていた音楽が「フォーク」です。フォークには、社会における不公平や不正といった社会問題を告発したり、抗議したりするプロテスト・ソングの側面があります。

 1960年代の社会運動においてその中心となった人物がボブ・ディランでした。「風に吹かれて(Blowin’ in the Wind)」に代表されるプロテスト・ソングを発表して注目されます。

 1950年代終わりから1960年年代にかけてのこうした動きは、「フォーク・リヴァイヴァル」と称されます。

 フォークの先駆者の一人がウディ・ガスリーです。1930年頃からギターをもって、“ホーボー”と呼ばれる、放浪しながら収穫を手伝ってその日暮らしをする労働者として全国をまわり、彼らのことを歌った曲をたくさん作ります。そのスタイルは、訪ねた土地の土着の古い民謡を元に新しい歌詞をつけたものでした。1930年にローマックス親子が収集した歌のなかには、ガスリーの録音も含まれています。

 労働運動にもかかわり、政治や労働者階級の貧困などをテーマにした曲も作りました。“モダン・フォークの始祖”と称され、ピート・シーガーやボブ・ディランに影響を与えています。

 そして、フォーク・リヴァイヴァルで大きな役割を担ったのが、ピート・シーガーです。シーガーの父チャールズは、ローマックス親子と同じく1930年代のフォークの発掘にかかわった民俗音楽学者で、母はヴァイオリニストでした。

 父の影響でフォークに親しみ、ハーバード・カレッジ中退後は父の友人であったアラン・ローマックスの助手を務めます。ローマックスの後押しでフォーク歌手としての活動を活発化させ、1941年にはアルマナック・シンガーズを結成。労働組合運動や人種問題、宗教融和などをテーマに、“歌う新聞”として活動し、ウディ・ガスリーも参加しています。

 アメリカ共産党に入党したシーガーですが、共産主義者に対する社会的な追放などの風潮によって次第に活動の場を失っていくことになります。1950年代終わりから1960年代初めにかけては、音楽教師として各地の学校やサマーキャンプで演奏したり、大学キャンパスで巡業したりしていました。

 シーガーは、レッドベリーやウディ・ガスリーの音楽を広めることに力を注ぎます。公民権運動にも深くかかわり、デモや集会では黒人霊歌が原曲の「勝利を我らに(We Shall Overcome)」を歌い、この曲は公民権運動を象徴する曲となりました。また、自身の代表作の「花はどこへ行った(Where Have All the Flowers Gone?)」はベトナム反戦運動の象徴となっています。

ピート・シーガー
巡業先で演奏をするピート・シーガー
(写真:GRANGER.COM/アフロ)

 ボブ・ディランは彼らの音楽から大きな影響を受けています。ディランは、幼い頃から独学でピアノを弾き、高校生の頃はエルヴィス・プレスリーやリトル・リチャードを聴いて、エレキギターを弾き始めます。一方で、ランボーなどフランスの象徴派やシュルレアリスムの文学作品を好んで読んでいました。

 大学に入学するも授業には出席しなくなり、エレキギターを売ったお金でアコースティック・ギターを買いなおし、フォーク歌手としての活動を始めます。この頃、ウディ・ガスリーのレコードを聴いて衝撃を受け、1961年に大学を中退。フォークの中心地だったニューヨークへ向かいました。

 レコード会社のプロデューサーに見出され、1962年にデビューアルバム『ボブ・ディラン(Bob Dylan)』を発表。しかし、当時は商業的な成功には至りませんでした。翌年発表したセカンド・アルバムからのシングルカット「風に吹かれて」がヒットし、彼の代表曲となりました。

ボブ・ディランのロック化

 ボブ・ディランは時代の寵児になり、フォークのもっていた言語感覚をより文学的に昇華して、ロックへとつなげます。

 ディランの影響を受けたビートルズは、恋愛の曲を書くのを止め、多様な主題をもつようになります。ビートルズはアメリカ・ツアーの際、ディランに会いますが、その際に「お前たちの詞は面白くない」といわれて、メンバーが感化されたという有名なエピソードがあります。余談ですが、このときビートルズは、ボブ・ディランからマリファナも教えてもらい、これがその後の実験的な作風の伏線となりました。

 ビートルズの詞の変化は、リスナーにとってラヴソング以外の世界観を知るきっかけとなります。それまで世間でヒットする曲といえば、恋愛について歌ったものばかり。ビートルズも同様にすべてラヴソングでした。こうしたラヴソングの動きは、さらにほかのバンドにも影響していきます。

 逆に、ボブ・ディランもイギリスのロックから影響を受けることになります。それまで“フォークの貴公子”だった彼はロック化して、詞もややナンセンスな方向へとシフトし、従来のフォーク愛好家からは批判を浴びました。

 1965年から66年にかけて行われたツアーでは、前半がアコースティック・ギターでのフォークの弾き語り。後半はエレキギターに持ち替えバックバンドを従えてのロックというステージ構成。最後の演奏前には、客席から「ユダ!(裏切り者!)」とヤジが飛んだという、ディランのロック化を象徴するエピソードがあります。

 しかし、このボブ・ディランの変化によって、フォークがもっていたプロテスト・ソングの要素は、ロックに接続されることになったともいえます。

 (※注釈)歴史事実を紹介するうえで、公序良俗に反する記述を含みますが、当時のどの出来事も著者は支持していません。

(第7回につづく)

1990年シアトル生まれ、千葉育ち。2019年にYouTubeチャンネル「みのミュージック」を開設(チャンネル登録者数34万人超)。また、ロックバンド「ミノタウロス」としても活躍。そして2021年12月みのの新しい取り組み日本民俗音楽収集シリーズの音源ダウンロードカードとステッカーをセットで発売中!
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Twitter:@lucaspoulshock