【祝・北京五輪金メダル/特別連載】8歳から平野歩夢を支えてきたマネージャーが見た「同年代の他の子とは違っていた点」

スポーツ・科学

更新日:2022/3/11

Two-Sideways 二刀流
『Two-Sideways 二刀流』(平野歩夢/KADOKAWA)※スノーボードverの新デザイン版

 人はついつい、楽なほう、得意なもの、知っていることに寄って行きがちだ。でも平野歩夢選手は違う。これまでの実績にあぐらをかくことなく、つねに先へ、より高く、未知へと繋がる道を選ぶ。それがたとえ厳しいものであっても、それを自分の成長の糧だと信じ続ける。

 その姿を一番身近で見てきたのがマネージャーの篠﨑公亮氏。スポーツ庁のナショナルトレーニングセンター(ハーフパイプ)強化拠点施設のディレクターで、平野選手の会社のマーケティングディレクターも兼任する人物だ。平野選手のドキュメンタリーフォトエッセイ『Two-Sideways 二刀流』(KADOKAWA)では写真撮影も手掛けている。平野選手と共に世界を転戦してきた篠﨑氏は、同書の中でこれまでの歩みにについてこのように語っている。

※本稿は『Two-Sideways 二刀流』(平野歩夢/KADOKAWA)から一部抜粋・編集しました。

レンズ越しに見てきた平野歩夢

Two-Sideways 二刀流

 歩夢との付き合いは、彼が8歳の頃からなので、かれこれ15年近くになります。仕事柄、これまで上手なスノーボーダーはたくさん見てきました。その中でも、幼少期の歩夢は技術的なことはもちろんすごかったのですが、なによりも競技に取り組む姿勢がずば抜けていた。誰よりも早く練習を始めて最後まで滑る。練習量が段違いだった。

 親に言われたからやっているのではなく、なぜ自分が滑るのか、子供ながらに自分ごととして考えられているようでした。仮に大会で調子が悪くても、文句は一切言わない。純粋に自分自身が弱いから負けたんだと練習を繰り返す。私が彼をサポートしたいと思った一番大きな理由、この姿勢は昔も今も変わりません。

 ちなみに、アクションスポーツにおいては「上手い、下手」はもちろん「ダサい、ダサくない」も意外と重要な要素なんです。歩夢は子供の頃からキャップを何種類も揃えたり、おしゃれへのこだわりが強かった。すでに何がかっこいいかという考えを持っていたのは、同年代の他の子とは全く違う点でした。出会った当時から今も、クールな性格はずっと変わりません。

 歩夢の生まれた1998年は、長野オリンピックでスノーボードが正式種目になった年です。毎回2月に行われる冬季オリンピックには年齢の規定があり、前年の12月31日の時点で15歳になっていないと出場することができません。13歳になったばかりの年末、11月29日生まれの彼は2014年開催のソチオリンピックにギリギリ出られそうだとわかり、私たちは出場するための計画を逆算し始めました。国際スキー連盟の英語のルールを全て読み漁り、ソチに出るために必要な条件を徹底的に調べ上げる毎日。非凡な才能を前にして、「この状況を見て見ぬ振りできるのか?」という義務感が私の原動力でした。

 ソチに出場するには、まず日本代表に選ばれなければ話は始まりません。今まで一度もW杯に出ていない選手を、どうやってナショナルチームに入れるか。ワールドカップより上の大会、XGAMESで結果を出すしかない。では、XGAMESに出るにはどのくらいの実力が必要か、どんな技が必要か。そうした話し合いから戦略を立て、目指すトリックを決めて、練習環境を整えていきました。

 半年後、13歳にして当時は世界で数人しかできなかったダブルコークを完成させ、歩夢の無双のシーズンが始まったんです。その滑りには「世界最高峰の技を俺はできるんだ」という自信が溢れていました。このシーズンは、XGAMES初出場で準優勝。ツアーの年間チャンピオンにも輝いて日本代表入りを決め、勢いのままに出場したソチオリンピックの大舞台でも銀メダル。誰も文句ない結果でしょう。嬉しかったですね。彼の活動を写真や映像で記録し始めたのも、この頃からです。

Two-Sideways 二刀流

 ある程度のレベルでやっていれば、アスリートは年齢を重ねることによって立場がどんどん変わっていきます。歩夢の場合、初めてのオリンピックは、全力で目の前のことをやっているうちにメダルを取っちゃった感覚だったと思います。本人は計算してどうこう、ではなかったはず。しかし、以降は勝つために必要なことを意識的にひたすら積み上げねばならない立場になりました。

 しかし、この3年間は新しい挑戦をすることで立場と視点を変えることができた。最初の年は結果が出なくて当たり前だよねと受け入れつつ、そこで見えてくるものがきっとあるはず、というのが二刀流挑戦の意図だったんです。

 辛そうだったのは、2020年にオリンピックの延期が決まった頃でしょうか。結果もそこまで出ていないなかで、代表選考に関わるスケートの大会は全て延期になってしまい、そもそもオリンピックの開催自体が不透明になってしまった。練習はしているけど、目標がなくなり、フィジカル的にもメンタル的にも苦しかったはずです。

 そんな雰囲気が変わったのは、3月に兄弟3人で久々にスノーボードに出かけてからでした。それまではスケートばかりだったので、やっぱりスノーボードの楽しさを再認識したと思うんです。変わらず状況は苦しかったけど、3人で滑ってからは「まあ、やるしかないよね」と明らかに立ち直ったように見えました。

 誰も成し遂げたことのないものを目指す挑戦は、一見孤独に見えるかもしれませんが、じつはその陰には家族の大きなサポートがあります。スノーについていうと、平昌オリンピックまで、歩夢は兄・英樹の背中を追い続けていました。英樹が現役を引退したあとは、弟の海祝がスノーボードで本格的に世界を目指し始めた。2020年シーズンの時点で、すでに海祝もナショナルチーム入りをしています。つまり、ずっと一緒にやってきた兄と入れ替わるように、弟と一緒に競技を戦い続けることができたんです。現在、英樹は村上市のスケートパークに常駐しているので、スケート面を見てくれている。挑戦自体は孤高ですが、兄弟2人と常に一緒にできていることの影響はめちゃくちゃ大きい。幼少期から両親のサポートも手厚く、平野家は家族で戦っている感じがします。

Two-Sideways 二刀流

 2020年は、春から夏までスケートとスノーの練習を並行して進めるキツいトレーニングを毎日続けてきました。体的には辛くても、両方やり込んで基礎的な動きを体に覚えさせるしかない。「辛すぎて、これ以上続けたら体が動かなくなっちゃうな」ってよく言っていましたけど、やめることはできないし、葛藤ですよね。

 その成果もあり、9~10月にスノーのトレーニングのために訪れたスイスでは、2年半振りのハーフパイプにもかかわらず、平昌の決勝で出した技は全部出せるまで感覚が戻った。真夏にスノーボードの基本動作を延々と繰り返すトレーニングは辛かったはずなんですけど、それを続けたからこそ、これだけスムーズに雪の上に戻ってこられたのだと思います。もっと時間がかかると考えていたけど、この結果には私も歩夢も驚きで。スノーもちゃんとやれば戻るぞ、意外にいけるぞっていう手応えが得られたのは大きかった。

 2021年に入ってからは、スノーボードは日本代表に戻れるかわからない状況で、スケートボードだって5月の大会が終わるまでは代表は確定ではなかったので、最悪、スケートでもスノーでもオリンピックに出られない可能性がありました。それが4月にスノーはナショナルチームに戻れて、スケートも5月でほぼ代表に決まったあたりから、少しだけ余裕が出てきたように感じます。

 技術的な面では、まだまだスノーとスケートを100%融合できてはいないでしょう。でも、スケートへの挑戦が歩夢の中のチャレンジャー精神を呼び覚ましてくれた。常に追われ続けて、1位に居続けなきゃいけない、そんな状況って苦しいじゃないですか。スノーも新しい技が出てきたり、追いかけなきゃいけない苦しさもあるとは思うけど、その状況を楽しめる余裕みたいなものは二刀流挑戦を経て得られたのではないでしょうか。

Two-Sideways 二刀流

Two-Sideways 二刀流

写真:篠﨑公亮

【著者プロフィール】
●平野 歩夢:1998年11月29日生まれ。新潟県村上市出身。2014年ソチオリンピック、2018年平昌オリンピックのスノーボード・ハーフパイプ競技において2大会連続銀メダル獲得したトップアスリート。2021年の東京オリンピックではスケートボード、2022年北京オリンピックではスノーボードで出場という前人未到の横乗り二刀流に挑戦。北京オリンピックの男子ハーフパイプ決勝では人類史上最高難度の大技を決め、悲願の金メダルを獲得している。

<第4回に続く>

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