「ちなみに、整形ってしないんですかー」ギャラ飲み面接で鼻で笑われて/短編「あなたの鼻がもう少し高ければ」全文公開③

文芸・カルチャー

公開日:2022/3/20

大学生のトヨは、この一年ほどSNSの美容アカウント、整形アカウントに入り浸っている。自分の本当の力を発揮できれば、称賛してくれる人々はもっといるはずなのに…。そう焦りながら、気づけばギャラ飲みやパパ活の斡旋をする「モエシャン」にあこがれるように。ある日、渋谷の高級ホテルにモエシャンの斡旋するギャラ飲みの面接を受けに行くが…。感染症の流行直前を描く、川上未映子氏の新刊『春のこわいもの』(新潮社)に収録された1編「あなたの鼻がもう少し高ければ」を、全5回で全文公開!

※本稿は『春のこわいもの』(川上未映子/新潮社)から一部抜粋・編集しました。

春のこわいもの
『春のこわいもの』(川上未映子/新潮社)

 三十二階に着くと、なんとなくお互いを気にしながら微妙な距離を保ちつつ、長い廊下を歩いていった。ドアの前でふたりは並ぶかっこうになり、そこで初めて目が合った。

 近くで見ると、女の顔はさっき鏡越しに感じたものとは比べものにならないくらいの迫力に満ちていてトヨは面食らったけれど、女が少し微笑んだように見えたので、トヨも反射的に微笑んだ。女がベルを鳴らした。沈黙。十秒後にもう一度鳴らした。するとドアの向こうで人がこちらに移動してくる気配がし、がちゃりとドアが開いた。

「入ってー」

 出てきたのはモエシャンではない女だった。

 けれどトヨには、それがモエシャンの側近中の側近であるチャンリイであることがひと目でわかった。

 チャンリイはインスタで見るより小柄で、目が倍くらいに大きく、全体に華奢で、そして何より目に飛び込んできたのは、そのめちゃくちゃな可愛さだった。

 チャンリイは水色のふわふわした袖長ニットみたいなのを着て、白っぽいジーンズを合わせていた。死ぬほど脚が細いと思った。色素薄い系のメイクにブルーグレーのカラコンがきれいだった。というか、黒目の部分に反射する光のかけらの数が、人より多い気がする。それに肌が完璧にブルベ冬で、色んなところをいじってはいるはずなんだけれど、どれもやりすぎず盛りすぎずで自然だった。完璧だった。トヨの鼓動は激しく脈打ち、顔が赤くなるのがわかった。

 女が先に入って、トヨが後につづいた。そのとき、トヨの胸がさっと陰った。自分はいまこのパウダールームの女とたまたま一緒にぐうぜん部屋に入ることになったけど、なんていうか、知りあいとか友達って感じに、思われたりしないよね?  これが偶然だってこと、チャンリイちゃんとわかるよね……?

 いや、うん、わかるはず。だって面接の受付っていうか、申込みは別なんだし、だいじょうぶだよね……そんな不安を打ち消しながら女の後ろ姿を見つめ、その足元に目をやったとき――女が、トヨの履いているのとおなじような厚底ローファーを履いていることに気がついた。

 まじかよ。トヨは限界まで目を見ひらいてそれを見た。濃い茶色。ごつごつして、透け感のある黒のワンピとぜんぜん合ってない。いや、そんなことよりこれ、似てるんじゃなくて、ひょっとしておなじ靴なんじゃないの……?  金具、金具のところを見ればわかる、いや、でもこれって現実に、おなじじゃなくてもおなじっぽく見える、ってことがこの場合は問題で、この感じ、面接におそろいの靴を履いてきてる感じのこれ、チャンリイにいったいどう見えるの?  センスおなじ感じにみえる感じなの?

 何をどう考えればいいのか、トヨの頭の中はまだらに白くなった。

 こっちでーす、というチャンリイの声にはっとして顔をあげると、一面に張り巡らされた大きなガラス窓のむこうに、東京の街が白っぽく霞んで見えた。手前に応接セットのあるリビング的なところがあり、その左奥に寝室部分がつづいているようで、べつの女の笑い声が聞こえてきた。電話で誰かと喋っているみたい。あの声は動画で何回も聞いたことのあるモエシャンだ、トヨはそう直感して耳がボッと熱くなった。

「すわってー」

 チャンリイに促されるまま、トヨと女はソファに並んで腰かけた。

 チャンリイは、ゆるく巻かれた金髪に近い、けれど全体に艶のある髪を何度もかきあげながらにっこり笑った。その仕草を見つめながら、トヨも無意識につられて自分の髪を触っていた。部屋は見事に散らかっていた。飲みかけのペットボトルとかグラスとか、皺だらけのショッパーや、床に丸められたバスタオルなんかが目についた。面接のためっていうより、普通に何日もここに泊まってるのだろうか。チャンリイはスマートフォンに目をやったまま独りごとを言いつつ、ふたりの向かいに座った。

「――えっと、どっちがマリリンちゃん?」

「わたしです。マリリンです」

 女がいきなり、元気いっぱいの声で返事をした。その声のあまりの威勢の良さ、場違いな大きさと張りにトヨは驚き、思わず中腰になってしまい、あわてて座り直した。自分が空気を読まずに大声を出したわけでもないのに、何かとんでもない失敗をしでかしてしまったように、心臓がばくばくと連打した。

 チャンリイは女の顔を二秒ほど凝視し、眼球を三ミリほど上下に動かすと口元だけで笑顔をつくり、無視することを決めたようだった。

「じゃ、そっちルナちゃん?」

「はい」

 トヨは控えめに返事をした。

 トヨの本名は登る世と書いてトヨと読む、まあまあ古風な名前だった。トヨが五歳のときに死んだ母方の祖父が「女だけどこれから世の中は変わるだろうし、出世するように」とつけてくれたものだった。その祖父心を知ってか知らずか、子どもの頃のあだはトヨトミからきたヒデヨシで、けっきょくトヨは小学校の六年間をヒデヨシとして過ごすことになった。何の疑問もなくそこらの男子とおなじようにヒデヨシ呼びする責任感のかけらもない教師なんかもいて、そのつど苛々させられたけれど、それよりもトヨは、この地味で時代遅れでまるでおばあちゃんのような名前がいかにも自分自身とその人生の色味を宿命づけているように思われて、最初から好きになれなかった。あれこれ考えた末、トヨは生まれ変わるような思いで自分にルナという名前をつけ、さすがにリアルの知りあいには秘密にしていたけれど、SNS上ではもうずっとルナと名乗っていた。

「ええっとー」

 チャンリイが笑った。

「えっとー、ギャラ飲み希望なんだよね、うちにDMくれたってことは」

「はい」

 普通に返事をしたら、女と――さっきマリリンと名乗った女と声が完璧に重なって、ユニゾンみたいになってしまった。

「えっとー」

 チャンリイがまた笑った。

「えっとー、どこから何を言えばいいのかっていう」

 せせら笑いのような表情でそう言うと、チャンリイはスマートフォンを触りだした。トヨはチャンリイが何か言うのをじっと待った。マリリンも黙ったまま、じっとチャンリイを見つめていた。でもチャンリイは、スマートフォンを持ったおなじ右手の親指で器用に画面をスクロールさせているだけで、つづきを話そうとはしなかった。半分ひらいた口から、ピアノの鍵盤みたいに真っ白な歯がみえていた。トヨとマリリンは黙ったまま、チャンリイがここにはいない誰かと、あるいはここには存在しない何かとやりとりしているのを見つめていた。チャンリイに案内されて部屋に入り、こうして彼女の目の前のソファに座っているのに、おかしなことにチャンリイはそのことにまるで気がついていないかのような、そんな感じがした。奥の部屋からも、まだ電話の話し声がつづいていた。

「あのー、ルナちゃんのほう」

 しばらくして、チャンリイが画面に目をやったまま言った。

「ちなみに、整形ってしないんですかー」

 えっ、と声が出て、トヨは打たれたように背筋を伸ばした。

「あっ、めちゃくちゃ興味はあります」

「どこ?」

「あっ、クリニックですか?」

「違う、顔のどこ?」

「あ」トヨは唇を舐めあわせた。「えと、理想っていうか、あの、それはあることはあるんですけど、まずクリニックに行って相談して、全体見てもらって、どこをするのがいいか一緒にまず決めるっていうか、そんなふうに考えてて……っていうのは、全体の費用感とかもあると思ってて」

「ふつう、それ終わってから来ない?」

「えっ」

「だから、来るなら、顔ちゃんとしてから、来てほしいんだけど」

 チャンリイは目だけをちらっと動かしてトヨを見た。

「なんでブスのまま来てんの?」

 トヨは、腹の奥のほうから恥ずかしさが熱の塊のようになって、体の内側をせりあがってくるのを感じた。

 ここからは見えない、トヨ自身も見たことのないひだやおうとつや粘膜を、その熱がなめしながら覆っていくのを感じていた。これが胸を越えて首を通って頬や目のあたりに到達したら、そのまま顔面が爆発してしまうのではないかと思うくらいに、その恥ずかしさは熱かった。トヨは息を大きく吐いて、なんとか頭の中に浮かんだ言葉を繋げていった。

「えと、費用感っていうか、えっと、調べてはいるんですけど、かなりお金もかかるみたいで、そのために、えと、今回頑張らせてもらえたらいいなって、そんなふうに思って」

「いや、逆でしょそれ」

「えっ」

「それってさ、大学入る金がないから、まずグーグル入って稼ぎたーいとか言ってるのとおなじだよ。意味わかる?」

 チャンリイは鼻で笑った。

「金がないなら借金するか、ブスでもできる仕事して稼いで、まず整形でしょ」

 トヨはチャンリイの言葉に黙った。

「っていうか、それっきゃなくない?  芋ブスでも穴モテするとこ見つけてやるっきゃなくない?  ぜんぶ順序が逆なんだよね。っていうかさ、クリニックで相談しますって、顔みたらどこやんなきゃいけないとか明らかだと思うんだけど?  まず口ゴボ、それから鼻っしょ。そんなんわざわざ相談するまでもなくない?」

 チャンリイは目の端っこをきれいにネイルされた小指で掻いた。

「インビザとかさ、なんでもあるじゃん、金ないなら、ないなりに。投資もしないで金稼ぎたいとかまじなくない?  いるんだよなあ最近。ギャラ要らないから人脈つくれる場所に参加させてくださーいとか、金持ち紹介してくださーいとか言ってくるの。無理だっつうの。信用なくすし、ブスに人脈与えてうちらに何の得あると思ってるのかなあ?  あんたの言ってることそれでしょ」

 トヨはぴくりとも動かずに黙っていた。チャンリイの視界にすら入っていないマリリンも、膝のうえに手を載せたまま動かなかった。

「っていうか、ブスに来られると場が凍りつくの。ブスはトラブルのもとなの。っていうか写真がんばりすぎっしょ。盛ってるとかのレベルじゃないし。最近さあ、ほんと女の子から連絡すごく増えてて、ただでさえ忙しいのにさ、も、こういう営業妨害やめて?」

 トヨは一言も言葉を返せず、ただ瞬きすることしかできなかった。

「はい、おつかれ」

 チャンリイは髪をかきあげて立ち上がると、奥の部屋に入っていった。モエシャンはけっきょく、一度も姿を見せなかった。

 部屋を出たトヨとマリリンは、二十分まえとおなじようにエレベーターに乗り、薄暗い穴にでも吸い込まれるように下降していった。ちん、というやはりさっきとおなじように涼しい音がして扉がひらき、さきにトヨが、そしてマリリンの順で、ホールに出た。多くも少なくもない人々が談笑したり、歩いたり、誰かを待ったりしているロビーを横切り、なんとなく外に出た。湿っぽい、生暖かい風がぶわりと吹き抜けて、トヨは思わず目を細めた。

 内臓が痛かった。いや、もちろん現実に内臓に損傷を受けたわけではなかったし、傷もあざもなかったけれど、しかしそうとしか言いようのないダメージを全身でひきずりながらトヨはふらふらとテラスを歩き、エスカレーターを目指した。吐く息が重く、つらく、体の重心をどこに預ければいいのかが、足を一歩踏みだすごとにわからなくなった。松葉杖とか、道でおばあちゃんとかが使ってるカートみたいなのが欲しいくらいだった。家にあるクイックルワイパーでもいい。体を支える何かが欲しい。

 もたれかかるようにエスカレーターのてすりをつかみ、トヨは地上に運ばれていった。そしてベルトコンベアからどすんと落とされる荷物のようにアスファルトに降り立ち、ぽっくりぽっくり足を進めていると、ふいに視線を感じて、振り返った。

 少し離れたところに、マリリンがいた。トヨとマリリンは何秒間か、見つめあう格好になった。トヨは、何か用ですか、とかなんとか言ってみようかと思ったけれど、その気力もなかった。

 トヨは、自分とおなじ大きさ、重さのずだ袋をずるずる引きずるように歩き、なんとか巨大な歩道橋を乗り越えて、駅のほうへ進んでいった。階段とか、ちゃんと舗装された道を歩くのだけでもこんなにしんどいのに、登山とかわざわざする人ってすごいなとか、そんなことを思った。

 山手線の渋谷駅南改札口は人で混雑しており、パスモの入っている財布を取りだしてはみたものの、あの人混みのなかに自分から入っていく気にはどうしてもなれなかった。よくわからないけど死ぬほど重いこの体と魂を、どこかで休ませないとやばい感じがする。トヨは横断歩道を渡って、雑多な飲食店が並ぶビルとビルのあいだの通りをゆき最初に目についたカフェに入った。

 そんなに広くもない店は、がらがらだった。いい匂いなのかそうでもないのか、揚げ物とかルームフレグランスとかお香とかそういうのが混ざりあったような独特な匂いが充満していた。

 顔が冗談みたいに小さくて、映えという映えが凝縮されたような、美しく若い女の店員がやってきて「お好きな席へどうぞ」と、無愛想ここに極まれりという具合で言った。トヨに一瞥もくれないその感じが、さらに美貌を引き立たせた。東京だよな、とトヨは力なく思った。こんなレベルの顔がごろごろしてる。美人であるだけで、その不機嫌も、わがままも、泣き言も失敗も、弱さも強さも、ぜんぶがそろって威光になる。ブスでは成立しないすべて。トヨは、沼にでも沈むようにソファに座って胸の中の息をぜんぶ吐きだした。少しして、がらんとドアの開く音がした。顔をあげると、逆光の中でマリリンが立っていた。細い光に縁どられたその影は軽く会釈のような動きをすると、トヨのほうへ歩いてきた。

<第4回に続く>

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