目の前の、目も鼻も整形している女の子は、もしかしてあの子…?/短編「あなたの鼻がもう少し高ければ」全文公開⑤

文芸・カルチャー

公開日:2022/3/22

大学生のトヨは、この一年ほどSNSの美容アカウント、整形アカウントに入り浸っている。自分の本当の力を発揮できれば、称賛してくれる人々はもっといるはずなのに…。そう焦りながら、気づけばギャラ飲みやパパ活の斡旋をする「モエシャン」にあこがれるように。ある日、渋谷の高級ホテルにモエシャンの斡旋するギャラ飲みの面接を受けに行くが…。感染症の流行直前を描く、川上未映子氏の新刊『春のこわいもの』(新潮社)に収録された1編「あなたの鼻がもう少し高ければ」を、全5回で全文公開!

※本稿は『春のこわいもの』(川上未映子/新潮社)から一部抜粋・編集しました。

春のこわいもの
『春のこわいもの』(川上未映子/新潮社)

 ほかにも世界の色んな絶景や、額にカメラをくっつけて危険地帯を行く命知らずのインスタグラマーたちや、どじな子犬や子猫の動画をマリリンに見せて、あれこれおしゃべりをした。トヨが何か言うたびにマリリンは笑い、トヨも笑った。大きく見ひらかれたままで固定された目の形とは裏腹に、マリリンの視線じたいは柔らかで、そしてその話しぶりはぽやんとしていて、その感じや声の調子を聞いていると、どことなく懐かしいような、じれったいような感じがした。そしてトヨはふと、小学校の頃に仲良くしていたスミちゃんのことを思いだした。スミちゃんはトヨのことをヒデヨシと呼ばなかった数少ないクラスメイトで、冴えないトヨに負けず劣らず、誰からもさしたる注意を払われることのない、地味でおとなしい子どもだった。

 トヨは小学生時代、派手で目立って弁の立つ女の子たちに使い走りをさせられたり、暇なときにどうでもいいことをふっかけられてはいじられるような存在だった。トヨはプライドが高く、そんな自分のことを恥ずかしいと思っていたけれど、スミちゃんだけはなぜかトヨを慕ってくれていた。女の子たちがトヨのことを無視したり、男子のまえで恥をかかせるようなことを言って笑い者にしたときも、スミちゃんはただひとり、変わらずおなじように接してくれた女の子だった。

 でも、小学生の頃にはありがちな、そうした主導権を持つ女の子たちの気まぐれと風向きの変化によって、末端ではあるけれど、トヨがそちらの女の子たちの仲間入りを果たしたような感じになったとき、トヨはあっさり、スミちゃんのことを疎ましく感じるようになってしまった。自分の意見がなく、なぜかいつもくっついてきて、弱い感じがして、ださくて、ぱっとしなくて、何が好きなのかもわからなくて、人の話にいつも肯いてへらへら笑うだけのスミちゃんを見ていると、不安とも苛立ちともつかない気持ちになった。スミちゃんがそんなトヨの変化に気づいているのか、いないのか――いずれにせよ変わらずトヨに話しかけ、笑いかけてくるスミちゃんに、まるで足をひっぱられているような、そんな被害妄想まで抱くようになっていた。

 それでいつだったか、これもありがちな顛末ではあるけれど、トヨが入れてもらった女子グループの、トヨよりもひとつかふたつ立場の強い位置にいる女の子が、スミちゃんが何か特別な行事のときに着てきた服を、こき下ろしたことがあった。そしてトヨはその女の子と一緒になって、スミちゃんが泣くまで笑って笑って追い詰めたことがあったのだ。

 そのあと、スミちゃんがどんな感じでクラスで過ごしていたのか、そういうことは思いだせない。目の前のマリリンは、トヨにスミちゃんを思いださせた。スミちゃんてどうしてるんだろう。ぜんぜん知らない。中学校に上がってからは、道とか廊下とかを歩いてるのを見たことあるけど、けっきょく一回もしゃべらず終いだった。高校はどこへ行ったんだったっけ――とそこまで思いを巡らせたときに、トヨの頭に、ある突拍子もない考えが、ぽんと浮かんだ。

 もしかして、このマリリンが、スミちゃんだってことは、ないよね?

 まさかまさかと思いながら、トヨはマリリンの顔をじっと見た。

 っていうか、スミちゃんって、どんな顔だった?――いや、ぜんぜんまったく、思いだせない。でも、マリリンはこんなに整形をしているわけだから、マリリンの本当の顔だって、わたしは知らないわけだよね。トヨは自分に問いかけた。ってことは、万が一、もしこの子がスミちゃんだったとしても、わたしにそれは、わからないよね。でももしも、この子がスミちゃんだったとしたら、スミちゃんには、わたしのことがわかるよね……だからここまで、ついて来たとか……?

 いやいや、ないない、この子がスミちゃんだなんて、そんな阿呆みたいな可能性あるわけない。ないよね。ないでしょ。それは、ないない。確率っていうか、そんなふうにできてないでしょ、よくわからないけど、世界って。

 トヨはため息をついて、自分のそんな馬鹿馬鹿しい思いつきを、頭の中から追いやった。そして、自分が、本当にきれいさっぱりスミちゃんの顔を忘れていることについて、考えた。

 自分にはもう思いだせない顔。でも、当たり前だけど、スミちゃんは今もどこかで生きていて、そこにはスミちゃんの顔があるはずだった。ここにわたしの顔があるように。思いだすことはできないけれど、今もどこかに、スミちゃんの顔があるはずだった。わたしが思いだせないだけで。

 たとえばマリリンは、もともとの自分の顔を覚えているんだろうか。目も鼻もこんなにいじって、唇や額をぱんぱんにして、顎も、ひょっとしたら頬骨だって削ってるかもしれないマリリンの顔は、元々は、こうではなかったはずだ。そんなマリリンの最初の顔は、本当の顔は、いったいどんなふうに記憶されているんだろうか。どこに、誰に、どんなふうに、残っているんだろうか。マリリンが、昔の自分の顔を思いだすとき、それは誰かべつの、ほかの誰かの顔を思い浮かべるのとは、違うのだろうか、どうなんだろうか。

 でも、わたしだって昔と顔は変わったはずで、年をとって、色々なところが変わったはずで、これからだって変わるはずで。だったら手術して色んなところを変えた顔と、年をとって自然に変わってしまう顔っていうのは、いったいどこが違うのか、違わないのか――トヨの頭には、これまで思ってもみなかったいくつもの疑問が浮かび、それがまた、べつの疑問をつれてきた。

 っていうか、そもそも、自分の顔って、考えてみたらやばくない?  自分で自分の顔って、そのまま直で見たことない。みんなが見てるのは、人の顔だ。自分の顔は、誰かがいるから存在するのだ。じゃあ、でも、たとえば、たとえばこの感染症がマックスに激烈にえぐい鬼展開になって、それはもう、とことんまでひどくなって、もう誰かに会うこともなくなって、あるいは無人島とかに送りこまれて自分以外の人がいなくなったなら、顔っていったいどうなるの?  誰も見る人がいなくなれば、顔だって足の裏とかひざの皮とかと、そんな変わらなくなるものなの?  どうなの?  いやいや、ひざと顔はちがうだろ。っていうか究極的にはおなじなの?  そういうことなの?  っていうか顔って、なんなの?

「――うちさあ、実家、しいたけ農家やってるんだよね」

 あとからあとから湧いてくる、とりとめのない混乱を打ち消すように、トヨは言った。あ、覚えてる、水貯めてるとこで遊んで怒られたよねえ――なんてことをいっしゅんマリリンが言ったらどうしようとトヨは思ったけれど、そんなことは起きなかった。

「しいたけかあ。しいたけの味って、どんなだったっけ」

「しいたけの味って、説明しにくいよなあ」

「どうやって、作るの?」

「うちは色々やってたなあ。なんか、いっぱい木を並べてるとこがあって、そこにね、ぼこぼこ生えてくんの。子どもの頃びびったのがさ、電気みたいなの打つんだよね。流すっていうか」

「しいたけに?」

「そうそう、理屈はわかってないらしいんだけど、昔から雷が落ちたら、しいたけがなんか爆発的にふえるってのがあって。なんか数が倍くらいになるとかで。それで誰かが始めて、そっから何万ボルトとかの、電気を打つようになったの」

「人間みたいー」マリリンは笑った。

「どういうこと?」

「わたしも顔に、めっちゃ電気、打つよ、電気バリっていうの。めっちゃ刺して、めっちゃ流すよ、電気ー。やっぱり、意味あるんだねえ」

 それぞれグラス三杯のビールを空にして、マリリンは少し、トヨはすっかり酔っていた。背もたれに体を預けたとき、紙袋のざらざらとした断面が肘をこすった。トヨは自分がお土産を持ってきていたことを思いだした。

 けっきょく渡すこともできず、持ち帰ることになってしまった、駅前のフィナンシェ。悪い気持ちになる人はいないからね、という母の言葉を思いだして、トヨはなんとも言えない気持ちになった。気持ちどころか、渡すタイミングどころか、面接どころか――頭に浮かんでくる言葉をいちいち確認すると、なんだか胸が痛くなるので、あくびをしながら両手をのばして伸びをして、胸を広げ、そこにあるものを逃してやった。そして、マリリンが、もし友達だったらどうなんだろうと、そんなことを思った。新しい友達でもいい、懐かしい友達でもいい、なんだったらお互いに頭をぶつけるかなんかして激しい記憶喪失になったけど、ちょっとの巡りあわせでいまお互いに思いだし待ち、みたいな友達でも、なんでも。これからたまに連絡を取りあって、互いの部屋に泊まりにいったり、愚痴を言いあったり、今みたいに酒を飲んだり、どうでもいいことで笑いあうような友達とかでもなんでもいいけど、わたしたちがそういう友達だったなら、どうだったんだろう。そんな想像が、ふっとよぎった。でもそれはトヨの頭の中をいたずらに横切っただけで、自分がそんなことを求めていないことも、また、そんなふうにはならないことも、トヨにはわかっていた。

「ねえ、小腹すかない?  フィナンシェあるよ」

「食べたいー」

 トヨは持ち込んだ食べ物を店の中で食べるのはまずいと知っていたけれど、酔っていたので気が大きくなっていた。何か言われたら謝ればいいし、必要以上に失礼な態度をとられたら、言い返してやればいい。全然いける。全然よゆう。トヨは紙袋の中で包装紙をばりばり引き裂いて、そのまま小さな箱の蓋をあけ、中からフィナンシェをふたつ取りだして、ひとつをマリリンに渡してやった。おいしそー、とマリリンはフィナンシェの入った小さな透明の袋を指でつまんで、鼻のまえで小刻みに揺らし、にっこり笑った。白いアイシャドウを盛っていた涙袋が、上まぶたの黒いアイシャドウと混じりあって、見たことのないような銀色に光ってみえた。

 やばいー、おいしー、と言いながらふたりはフィナンシェを齧りつづけ、おなじひとつの甘さがそれぞれの舌のうえに広がっていった。ほかに客の姿はなく、いい感じに酔いがまわったふたりの声は、大きく響き渡った。

 いっぽう、さっきの店員はレジのカウンターの中で、ただでさえ長く美しく生えそろった睫毛をさらに長く美しくしようと念入りにマスカラを塗りながら、最近いい感じに距離がつまってきて、この数日に何かが起きそうな相手に送るラインの中身を考えている途中だった。もし寝ることになったなら、相手が自分に期待していたり想像している以上のものを、見せつけたいし、圧倒したいし、今まででいちばんすごいと言わせたい――小さな手鏡のなかの自分を見つめれば見つめるほど、その恍惚はいっそう高まる。客席から、女たちの笑い声が聞こえて顔をあげる。そのとき彼女はたしかにトヨとマリリンを見たけれど、ふたりの姿は目に映らない。

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