春はときどき急いで帰る/生物群「やさしい食べもの」④

文芸・カルチャー

公開日:2022/4/22

 自炊をこよなく愛する内科医・生物群による、どこまでもやさしい食エッセイ。忙しない日常のなか、時に自分を甘やかし、許してくれる一皿の話。

 ずっしりと重い荷物を抱えて、焦るような、それでいて楽しみでもあるような、これから大仕事があるのだという気持ちで家に帰ることがある季節が春です。気持ちのいい外気温、やわらかい風、咲いたばかりの花、これから芽吹いてくる緑、夕方になっても軽い気持ちでぶらつける、夜になっても寒くないことを肌で感じて嬉しくなる季節、だからいつまでも外にいたいのに、そういうわけにもいかない。春にはときどき急いで帰る日があります。

 ところどころに泥がまだ付いて、それでも毛皮のように光る竹皮、切り口もみずみずしい掘りたての筍を米ぬかで下茹でするための夜です。

 数年前の春の午後、友人が旅行から帰国して、旅行中に撮った写真を別の友人の店で展示するというので、ふらっと観に行くことにしました。新三河島の住宅街を歩いて行くとそのお店である「屋上」があって(「屋上」はお店の名前です。建物の屋上ではなく3階建ての建物の1階にあります)、友人がインドを3カ月間旅した写真を展示していました。「屋上」に入ると、写真を撮った友人や「屋上」主宰の友人、その他に写真を観にきたお客さんで店内は混み合っています。写真に写っているのは、彼がインドですれ違った人々、インド西海岸の街から見たアラビア海の浜辺と夕暮れ、カフェで食べたインド人の作ったアップルパイ、野犬、飼い犬、路上の牛、チャイ、ビスケット、屋台のパロタ(デニッシュパン)、屋台のプーリ(揚げパン)、サモサ、食堂の素朴なミールスやターリーといった定食、ヒンドゥー教寺院、古い天文台。友人の観てきた視線、視界と記憶が自分の頭のなかに押し寄せてくるようで、美しいものを見るときに時々感じる苦しいような気持ちになりました。その中で、友人は一枚海辺の街で撮った写真をおみやげに私にくれました。そして……「先に来たNさんが誰かにあげてと言って持ってきた堀りたての筍があるけど、持って帰りませんか?」と言ったのです。

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 掘りたての筍をくれる人がいるとき、断るすべは私にはありません。私が断ったら今晩下茹でをする人がいないかもしれない、このみずみずしい今だけの筍を、一番美味しいときに食べる責任とも呼べるものが、そこで生まれてくるのです。「屋上」でインド帰りの友人に新聞紙に包んで渡されたのは、まさに「ところどころに泥がまだ付いて、それでも毛皮のように光る竹皮、切り口もみずみずしい堀りたての筍」そのものでした。その瞬間、その夜の予定はすべて変わります。もしもしばらく会えていない恋人に会う予定があっても、筍が先になってしまいます。

 筍のあく抜きのための茹で時間は2時間かかり、ぐらぐらと大鍋で茹で上がった筍と茹で汁はそのまま冷めるまで待たなければいけないので、時間短縮料理には程遠く、そのかわりに、それほど難しい作業ではないのですが、とにかく一晩かかることを覚悟しなければなりません。泥を落として手入れされた毛皮のように光り輝く外の竹皮を数枚ぐるりと剥がし、包丁で筍の先端を落とし、火が通るように途中まで包丁を入れて、たっぷりの冷たい水から大鍋で茹でます。米ぬかでぼこぼこと沸き上がる濁った茹で汁、一本鷹の爪を入れると、赤い唐辛子は鍋の中の対流であちこちに泳ぎます。ある程度沸いたら、弱火にしてそのまま2時間茹でます。私は一晩かけて冷ますつもりで寝る前に茹で始め、寝る直前に火をとめて、特別に豊かな夜の眠りに入ります。

 朝起きると一晩ですべて忘れて、台所のコンロに見覚えのない大鍋があり、なぜ濁った水が張ってあるのかと一瞬だけ驚きますが、その次の瞬間には自分が前の晩にやっていた大切な下拵えのことを思い出します。米ぬかで濁った茹で汁の中から筍を引き上げ、硬い食べられない場所を取り除き、食べられる形に切り分けて保存します。そのときにできた「食べられる筍」は、あの春の浮き立つ夜を我慢して重い塊を持ってきたときとは比べ物にならないくらい小さな姿に変貌しています。しかしこれは鉱山の膨大な量の岩石から鉱物を取り出すのにも似ていて、それよりはずいぶん分け前が大きいものなのです。

 時間があるときには、この朝に炊き込みご飯を作ってしまいます。筍の炊き込みご飯は、出汁、塩、油揚げで作るのが好きで、さらに言えば、たくさん作っておいて、一度冷めたものを、熱々の出汁で筍の出汁茶漬けにするのがさらさらと美味しくて、この頃一番気に入った食べ方です。

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新三河島の「屋上」Webサイト

<第5回に続く>

生物群(せいぶつぐん)
東京在住。都内病院勤務の医師。お酒と食事が好きで、ときどき帰宅してから夜寝る前まで料理を作り続けてしまいます。


Twitter:@kmngr