マイルス・デイヴィス「自分自身に退屈する前に次のステップへ進む」/天才たちの習慣100

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公開日:2022/5/17

 世に名を馳せた天才たちによる、「毎日実践していた習慣」や「日々思い描いていた人生哲学」、「経験から生まれたマイルール」などなど…。その「効果」「効能」を、『すぐに真似できる 天才たちの習慣100』(教育総研/KADOKAWA)からご紹介します!

作品を次々と変化させていったマイルスの意図とは?

 マイルス・デイヴィスのジャズ・ミュージシャンとしての活動(彼自身は「オレは一度だってジャズをプレイしているなんて考えたこともない。ロックをやったつもりもない」という趣旨の言葉を口にしている)は、『クールの誕生』の発表以降、さまざまに変化しています。

『カインド・オブ・ブルー』ではモード・ジャズに挑戦し、『ビッチェズ・ブリュー』では楽器をアコースティックからエレクトリックに「電化」させました。数年の停滞後、80年代に復帰してからは『オン・ザ・コーナー』『TUTU』などでヒップホップとジャズとの融合を試みています。マイルス・デイヴィスはジャズ・ミュージシャンという認識が一般的だと思いますが、実は一所に安住せず、常に変化を求めて音楽を転変させていたのです。

 彼は、自分が立派なミュージシャンであり続けたいのならば、新しいことや、その時に起こりつつあることに対して常に開かれていなければならないといっています。

 これは、自分を成長させるには、いつも新しいことを吸収し続けられる自分でいなければならないということです。

 彼の言葉の中で印象深いのが、「自分で自分の音楽に退屈してしまう前に、次に行く」というもの。特に仕事において、いつもと変わらないクオリティを保ち続けるのはとても難しく、それができているときは“楽に”仕事ができていると感じます。

 しかし、果たしてそんな自分で本当によいのだろうか?

 上記のマイルスの言葉は、私たちにそんな問いを投げかけているように思えるのです。

 では、マイルス・デイヴィスはいつも新しいことを自分自身に吸収させるために、どのようなことを行なっていたのか?

 事実から取り出してみると、彼が行なっていたのは「若いミュージシャンと演奏する」ということです。自分にないものを貪欲に探し求めていたマイルスは、自分よりも年上のミュージシャンから考え方や技術を教えてもらうのではなく、あえて年下のミュージシャンからそれを得ていたのです。

 彼は、才能のある若いミュージシャンに囲まれながら演奏することがとても好きでしたが、それはマイルスが彼らに教えるという形をとりながらも、実は自分自身もまた学んでいたようなのです。

 つまりマイルスは、まずは年下のミュージシャンに技術や心構えを教えてあげることによって、彼らが返してくれる新しいエネルギーを得ていたといえます。

 だから逆にマイルスは、若いミュージシャンが、自分(マイルス)がそれまでにしてきたような演奏をしている姿を見た時、嬉しさではなく、悲しさがこみ上げてきたといいます。

 一般的には、自分に似た演奏を年下がしている姿を見れば、「自分を尊敬してくれているんだな」と感じてしかるべきでしょうが、天才は違います。「何を古臭いことをやっているんだ! 若いくせに年寄り臭いことしやがって!」。マイルスはそう感じていたようです。

 1992年発表の『doo-bop(ドゥー・バップ)』が結果的にマイルス・デイヴィスの遺作となってしまいましたが、このアルバムには当時の流行であったラップやヒップホップの要素が盛り込まれてあります。

 しかし、奏でられている音楽は間違いなくマイルス・デイヴィスのもの。

 最後のライヴは91年8月25日にロサンゼルスのハリウッド・ボウルで行なわれ、その直後に入院。9月28日、肺炎などのためこの世を去りました(享年65)。

【プラスα】常に刺激を求めていたマイルス・デイヴィス
「変わっていかなければならない。それがオレの運命だ」とも豪語していたマイルス・デイヴィス。年下と演奏することで刺激をもらい、次の段階へと着実に進んでいた彼ですが、努力することも怠りませんでした。モード・ジャズの最高傑作『カインド・オブ・ブルー』の発想を得たのはギニアからやってきたアフリカ・バレエ団のステージを観ている時だったとされ、トランペットの練習は祈りを捧げるように常に行なうべきだといっています。「天才は努力によってつくられる」の好例です。

天才たちの習慣

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