29歳、同棲を決めた彼氏が引っ越し当日“音信不通”に。彼女が向かったのは……『いっぱいおかえり』【レビュー】
PR 公開日:2026/9/29

8月14日に西のえこが描く漫画『いっぱいおかえり』の電子単行本の1〜3巻が同時発売された。居酒屋「よりみち」を舞台に、心に傷を抱えた女性たちが新たな一歩を踏み出すまでを描いた作品だ。
第1話の主人公は、同棲を決めた7年来の彼氏に、引っ越し当日にフラれてしまった藤井駒子(29歳)だ。

彼氏と音信不通になり、知らない土地にひとり取り残されてしまった駒子。たまたま通りかかった居酒屋「よりみち」の店主・頼道に誘われ、店内へと足を踏み入れる。

普段は行くことがないような、家庭的な居酒屋。最初は戸惑っていた駒子も、美味しい食事やお酒、気さくな常連たちとのやり取りの中で心がほぐれていく。

楽しい時間だったからこそ、これから帰る家が、あの引っ越したばかりでカーテンや照明カバーもなければ、一緒にいるはずだった彼氏もいない真っ暗な部屋であることに気が重くなる。駒子は29歳にして、人生の見通しが全く立たなくなっていた。
というより、見通しなんて最初から立てていなかったのかもしれない。駒子は昔から優柔不断で危なっかしく、いつも周りが助けてくれるような女の子だった。

自分の意思は主張せず、誰かの顔色をうかがって、何か思うことがあっても飲み込んでしまう。だってそれが「安全」だから。危ないことから守ってくれていた母親や友達、彼氏は良かれと思ってやっていたことだったかもしれない。でも、結果としてそれは駒子から自主性を奪っていた。気が付けば人の引いたレールばかりを見て、自分で道を選ぶことを避けるようになっていた。それは誰かに依存しているってことだ。
辿っていけば安全だと思っていた「白線」が、突然途切れてしまった。30年近く誰かに行先を示してもらっていたのに、いきなり「ここから一人で生きていってね」と言われてしまう。絶望的だ。そして、そんな事情を知った飲み屋の常連たちは駒子に同情し、慰める。その一方で、駒子の弱さを的確に刺すような、厳しい一言も飛び出したりする。

これって、舞台が居酒屋だからこそのコミュニケーションだ。社会に出たら建前ばかりのコミュニケーションが増えていく中で、お酒を片手に初対面の人たちとも無礼講の会話をすることができるのは酒場の特権だろう。そして、そんな率直なやり取りがあったからこそ、駒子は改めて自分自身と向き合う勇気を持つことができる。
幼少期の傷を抱えたまま大人になってしまったとき、私たちはその傷をどうやって癒しながら生きていけばいいのだろう? おそらくそれは他人に「治して」とすがっているうちは難しいのだ。ケガをして泣いている当時の自分を理解して抱きしめられるのは、他でもない自分だけだから。
駒子をはじめとして、物語にはそれぞれの心の傷を抱えた女性たちが登場するが、彼女たちは居酒屋でのコミュニケーションを通して、“自分たちの足”で新たに踏み出そうと立ち上がる。その姿を見ていると、読者である自分も勇気をもらえるような感覚がある。
1巻では、母親からもらえなかった愛情を他の男性からの好意で埋めようとするマナカや、過去のトラウマから彼氏に怪しいところがあっても追及できないミナなど、駒子とはまた違った傷で苦しむ女性も登場する。彼女たちの思考の歪みや振る舞いがあまりに生々しく、「こういう女の子いるよなあ」とか「私もこういうことで悩んでいたなあ」と共感してしまうシーンが多い。

過去の自分に向き合うには、勇気も気力も必要だ。とはいえ傷ついてばかりの彼女たちにそんなことを求めるのは酷だろう。
でも、彼女たちには居酒屋「よりみち」がある。お酒と食事に舌鼓を打ちながら、一休みして、心を充電する。それが生きる力になる。作中で彼女たちがお酒を飲むシーンは、本当に美味しそうだ。満足げな彼女たちの表情を見ながら、自分も癒されているような気分になる。もし今、過去のトラウマや心の傷に悩んで疲れている女性がいたら、この作品を勧めたい。きっと彼女たちにとってこの作品は、居酒屋「よりみち」のような存在になれるはずだから。
文=園田もなか
