あの文豪の“恥の多い第2の生涯”とは? 勇者になれなかった人間たちのドラマ

マンガ

公開日:2021/7/28

異世界失格
『異世界失格』(野田宏:原作、若松卓宏:作画/小学館)

 ある作家が、愛する女と共に入水し心中するため玉川上水へやって来た。しかし彼らにトラックが突っ込んできて……。これが『異世界失格』(野田宏:原作、若松卓宏:作画/小学館)のプロローグだ。

 彼は念願がかない、この世に別れを告げることに成功した……。だが気が付くとそこは西洋風の建物の中。目の前にはアネットと名乗る女性が立っていた。彼女は「ここはあなたがいたのとは異なる世界、ザウバーベルグ」と告げる。

 本作はだれもが知るあの文豪(と思われる)の、異世界転移ストーリーである。

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異世界で始まる“恥の多い第2の生涯”

 心中に失敗し、あの世ではない異世界に飛ばされてきたことで、作家は絶望し催眠剤を大量に摂取するが、アネットは魔法で彼を回復させて言う「選ばれし冒険者よ、あなたは闇に閉ざされたこの世界を救うため、勇者となって魔王と戦うのです」。

 なぜ作家が転移したのか。それは彼が死のうとするほど不幸だったからだ。ザウバーベルグは、元の世界で不幸せな人間を転移させ、神受の力(ギフテッド)というチートスキルを与え、魔王討伐に送り出していた。

 アネットは「他人は僕を“先生”と呼ぶ」と言うこの男のステータスをチェックした。すると彼は体内に残った毒(常飲している催眠剤の成分)はあるものの、なぜか何のスキルも持っていない、最弱の転移者だった。「申し訳ありません、あなたは手違いでこの世界へ来てしまったようで、この世界で生きていく才能も資格もない」と彼女は言う。

 男は「それこそ僕の人生だ。僕はどこでも失格者の烙印を押される人間なのだな」と自嘲し、その場を立ち去る。しばらく歩いたところで魔物が襲ってきた。「もう長くないようだ“グッド・バイ”」と(少しうれしそうに)諦めるも、魔物は彼の体内にある毒を吸収して自滅してしまった。

 また死ねなかった……彼は異世界に来てしまったことを含めて、5度も自死を試みて失敗していたのだ。あの文豪の書いた一節や言葉をつぶやく「死にたがり」な先生は、そこでふと思う。玉川上水で心中しようとした“さっちゃん”もこの世界にいるのではないかと。

僕は今この酔狂な異世界に、
生きる意味を
見つけたのだ。

君をきっとみつけだす。
そして―…
心中するのだ

 彼は「心中する相手を探す」という勇者らしからぬ思いを抱き、旅に出るが一人ではない。彼になぜか心ひかれ、職を辞したアネット、彼が結果的に助けた美少女猫亜人のタマ(仮)、使い魔の“メロス”、後に孤独な少年・ニアも加わる。彼らとパーティを組み、珍道中がスタートする。

アンチ異世界転生ファンタジーで主人公になる失格者

 ここから物語は転調する。なんと「七堕天使」と呼ばれる転移者たちが魔王を討ち果たしてしまったのだ。めでたしめでたし、ザウバーベルグに平和は訪れ……なかった。

 目的を失った転移者たちは、私利私欲にまみれスキルを乱用するなど暴走を始める。「これからは転移者たちが統治する新時代」と宣言する者まで出てきた。7人の堕天使は事態を収拾する気はさらさらない。そして復讐の機会をうかがう魔王の娘……。

 いまいちさえない人間が新たな人生を歩む異世界転生・転移エンタメ作品は数多くある。ただ本作は、完全に不幸だった人間を選んで転移させ、彼らに特殊能力が与えられる。考えてみれば元の世界で虐げられていた者が、いきなりチートスキルを得た瞬間から正義に目覚め、命をかけて戦うとは限らないだろう。確かに……と納得してしまった。出版社がつけた「アンチ異世界転生ファンタジー」というキャッチコピーがしっくりくるストーリーである。

 なお彼は混沌と混乱の中、創作意欲に目覚め、転移者たちに興味を抱き小説を書く。それは勇者になれぬ哀れな転移者たちの物語だ。

題して「勇者失格」…いや―「異世界失格」

 彼がそうつぶやくと、そこではじめて彼のスキル「執筆(ストーリーテラー)」が発動する……。その能力とは?

 勇者として失格だと思われた最弱の転移者が、勇者になれなかった転移者たちの物語を紡ぐ。それは暴走する転移者たちと、強力な七堕天使に対抗しうる力だった。この皮肉がきいた運命にすがるしかないアネットをはじめとした異世界の者たち。

 ランダムに与えられるチートスキルによっては、そもそも戦闘向きではなく、勇者になれない転移者もおり、彼もその一人だと思われた。しかし魔王が消えて混迷を極める異世界を救う“新章”になり、その主人公になったのだ。

 ザウバーベルグは救われるのか。男の「“さっちゃん”との心中」という望みはかなうのか。失格者たちの物語というシナリオを、ぜひ楽しんでほしい。

文=古林恭

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