立ち呑みの流儀/絶望ライン工 独身獄中記 第77回
公開日:2026/9/2

国鉄に揺られながら、窓の外を眺める。
大井町にあんなデカいビルあったっけ。そういえば田町らへんも随分と様変わりしたな。
車内にはスーツ姿のサラリーマンがちらほら。19時の東京を象徴するようにくたびれた顔で突っ立っている。
スーツに袖を通すこともなくなった、最後に着たのはいつだろう。
おそらく6年前の面接の時じゃあないか。それ以来私も東京のサラリーマンだが、通勤時は私服、職場では作業着に着替えて業務にあたる。
この数年間親族に不幸もなく、また結婚式もないのだからいよいよスーツを着なくなる。
押し入れにしまいっぱなしで蜘蛛の巣が張っているかもしれないし、そもそもこの数年で肥えた私には着られなくなっているやもしれぬ。
次にスーツを着るなら自分の結婚式だ、純白のタキシードを仕立て屋に作らせよう──
そんな事を考えながら乗り換え駅で降りると、妖しく誘う赤提灯が目に入った。
立ち呑み屋である。
私には酒が飲みたい日がある。それは「飲みたい」と「飲みたくない」の単純な2択ではなく、「家で缶ビールが飲みたい」、「日高屋で生ビールが飲みたい」、「立ち呑み屋でホッピー飲みたい」、「今夜は我慢してペプシコーラ」の4通りです。
つまり2ビット分の情報量がある。
立ち呑み屋で飲みたい時。それは寂しい時、少しだけ人恋しい時だ。
店内は既にたくさんのサラリーマンで溢れ、隣になった者同士ギャハハと騒いで大変な賑わいだ。
カウンター席に通されてビールを注文する。目の前のカゴに1000円札を入れておくとそこから勝手に会計されるしくみである。
いつもニコニコ現金払い、カードもスイカもAEONペイも使えないし都度会計だから領収証も出てこない。
この実に潔い出納システム、最近読んだ「阿Q正伝・狂人日記」にもそんな描写があったな。
ドカッと出てきたビールジョッキをあおりつつ、焼き鳥を注文する。
立ち呑み屋は不思議なもので、どんな串モノでもすぐに出てくる。
焼き鳥屋で同じものを頼むともったいぶって散々待たされるが、立ち呑み屋の焼き鳥はものの5分で出てくるのだからありがたい。
「お、旨そうだな。俺も頼むか」
隣のオッサンが実にナチュラルに話しかけてくる。ここでは挨拶も身分を明かす必要も名乗る必要も無い。いきなり隣人に話しかけることが許されていた。
夜の帳とともに出現する不可侵な治外法権が、この場所のルールだ。
もう2度と会う事もない、偶然隣同士になっただけの行きずりのオッサン。
立場も肩書も関係なく、無遠慮に会話できるのだから楽しい。
偉い会社の上役も非正規雇用の工場勤務も、ここでは皆ただのオッサンである。
お名前なんですか。どこの会社ですか。などと聞くのはルール違反だ、カゴに入った今夜の大事な1000円札が没収されちまう。
出されたぶりぶりの焼き鳥でジョッキを飲り、次何を頼むかを考える。
メニュー表やオススメが書かれたホワイトボードは一旦無視、周りを見渡し観察するのが大切だ。
この店じゃあ何を頼むべきなのか。皆何を飲んでいるのか。
ホッピーセットで粘れる店なのか、ウーロンハイが一番安いのか、緑茶ハイが流行っているのか、瓶ビールがあるのかないのか。
立呑み屋で生ビールを注文し続ける愚者はいない、そんな金があるならこんな所で飲んでいないで他へ行く。
ホッピーセットが正解の店は「ナカ」がめちゃくちゃ濃い。ほぼ焼酎だったりする。
皆ウーロンハイばかり飲んでいる店では一番安い酒がウーロンハイだ。緑茶ハイの場合もあるが。
肴は何がいいだろう。刺身、串モノ、煮込み、揚げ物連中ポテトサラダに卵焼き。
その店の潮流を、潮目を読むのがお初の店では必要である。何せあんましお金がない、
ハズしたくないのだ。
ところが酔っぱらってきたらそんなの関係ないの。隣で飲んでるオッサンに聞いたらよろしい。
「ここは何が美味しいですか」
オッサンは優しく答えてくれる。
「全部酷いもんよ!ギャハハハ!」
「コノヤロー!ギャハハハ!」
つられて店主殿も笑っておられる。我々オッサンはこういうのが楽しくって仕方がない。
今夜も元気に酔っ払い、明日からまた勤労の義務を果たしに社会へ還る。
そんな過酷な日々を過ごすオッサンを癒せるのはオッサン以外にあり得ない、
だから俺達が辿り着くのはキャバクラでもコンカフェでもガールズバーでもなく、きっと立ち呑み屋なのだろう──
そんな事を考えながら飲んでいると、斜め向かいの酔っ払いが私を指差し叫ぶのだ。
「この人ユーチューバーで~す!」
「ギャハハハ!」
皆笑っている。私も笑った。
「はいユーチューバーさんウーロンハイ!」
店主がドカっと目の前に、酒の入ったジョッキを置く。
ユーチューバーと呼ばれた男は少しも動じずそれを飲む。
此処じゃあ誰も、話を聞いちゃいないのだった。
43歳独身男性。工場勤務をしながら日々の有様を配信する。柴犬と暮らす。
本連載「独身獄中記」が本になります。
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