“空白の2年”に寄せていた心の波 そこから生まれた人と医療の物語『鹿の王 水底の橋』上橋菜穂子インタビュー

小説・エッセイ

2019/4/24

「最初に浮かんできたのはね、冒頭の場面なんです。開け放した施療院の戸からは、気持ちよい春の風が、満開のシュダの花の香りを運んできているのに、そこにいるホッサルは、なぜかカリカリしているんです(笑)」


著者 上橋菜穂子さん

上橋菜穂子
うえはし・なほこ●東京都生まれ。作家、文化人類学者。1989年『精霊の木』でデビュー。2014年“児童文学のノーベル賞”と称される国際アンデルセン賞《作家賞》を受賞。15年『鹿の王』で第12回本屋大賞第1位、第4回日本医療小説大賞を受賞。今年、作家生活30周年を迎える。現在、『鹿の王』のアニメ化企画が進行中。

 

巨大帝国・東乎瑠が他国への侵略を繰り返すなか、突如発生したウィルス─『鹿の王』で描かれた黒狼熱大流行の危機が去り、その治療に奔走したオタワルの天才医術師・ホッサルのそんな姿が見えてきたのは、自身の“空白の2年”のなかで寄せては返していた「心の波が連れてきたものではないか」という。

「『鹿の王』を書き終えた少し後、母が肺がんに罹っていることがわかりました。そこから2年間、私は母の看病と父の介護に没頭することになったのです。唯一、文章を書いていたのは、母のことを診てくださった聖路加国際病院の津田篤太郎先生との往復書簡だけ。物語を書くという感覚は自分のなかから一切、消えてしまっていました」

「もう二度と、新しい物語は書けないかもしれない」。そこに寄り添ってきたのは、感染症から生き残り、自身の身体に奇妙な変化を感じるヴァンや、病の謎と向き合うホッサルなど、『鹿の王』の世界で生きる人々の感覚だったという。

「母を看病するなかで、私はヴァンやホッサルと同じ体験をすることになってしまったわけです。それを見つめ、様々なものが寄せ来る心の波のなかで、もしかしたら何か書けるかもしれないという気持ちが、細い糸のように物語を手繰り寄せていきました」

冒頭の場面で、ホッサルがカリカリしている理由はすぐにわかる。助手で恋人のミラルがどこかに出かけてしまっているからだ。戻ってきた彼女は、黒狼熱発生の際、手伝いに来ていた清心教医術の祭司医・真那から、清心教医術発祥の地・安房那領に、ホッサルとともに招かれたことを告げる。ひょろりと背の高い、猫背気味のその若者が、実は東乎瑠帝国の領主家である安房那の御曹司であったという驚くべき事実も。

「『鹿の王』のとき、清心教医術とオタワル医術というもののことを書いたつもりではいたのですが、書いていなかったことがたくさんあるなぁと気がついたんです。帝国というのは、様々な民族がともに暮らしている巨大な生活空間。死生観は民族ごとに違うでしょう。その中で、いったい、どういう経緯で、清心教医術は帝国唯一の正統な医療として認められたのだろう─そう思ったとき、秘められていた歴史が見えてきたのです」

病とは穢れ。穢れた身で長らえるより、清らかな生を心安らかに全うできるよう、神の教えに従って行われる清心教医術。それは“病は人の手が届くところにある”と考え、どんなすべを使っても、治そう、命を助けようとするオタワル医術とは考えを異にする。“清心教医術について丁寧に説明させていただきます”――そんな真那の招きを受け、2人は安房那領へと旅立っていく。そこには難しい病を得た真那の幼い姪がいた。人と医療の物語はそこから始まる。

「“病気を治して良かったね”という話を書きたいと思ったことはないんです。もちろん、そのときの苦しみが癒やされ、長い人生を与えられた、ということは素晴らしいことですが、私はつい、別のことも考えてしまうんです。ある病気の治癒はひとつの経過でしかなくて、やがて、身体が命を支えられない日が訪れて人は逝くのだ、ということとか、病むことで目の前に生々しく立ち上がってくる命の意味とか。

病の辛さは複雑で、全体的なものだと思うんです。病んだとき、どうして、こんな病気になってしまったのか、何が悪かったのか知りたいと思いませんか? 例えば肺がんだとわかったとき、その危険を知りつつタバコを吸う喜びを選んできた人と、まったくタバコなど吸わなかった人とでは、頭に浮かぶことは違うと思うんです。喫煙歴がない人にしてみれば、タバコも吸っていないのに、いったい何が悪かったのか、と思うのも当然ですよね。でも、きっと、健康であることが常態というイメージは、ある意味幻想に過ぎなくて、“何かしたから”ではない理由で病むことも、たくさんあるはずです。それでも人は、病の原因について様々な物語や幻想を紡がずにはいられない」

ホッサルは、清心教医術に触れ、その驚くべき隠された歴史を知り、オタワル医術にはないものに気づき始める。自分がこれまで信じてきたことに亀裂が生じて、幻想と向き合う瞬間が訪れるのだ。

「彼は自身の医術を強く信じています。真那が清心教医術を信じているように。2人はとても似ているんですね。それぞれの医術の世界を背負い、自分はその最先端にいると思っている。いまはまだ治せなくても、それは終着点にいるわけではなくて、まだ途中なだけ。行く道自体は間違っていないと思っている。――でも、ミラルは多分、違うものを見るだろうな、と感じていたんです」

その気づきが、物語がむくむくと動きだす、大きな原動力になった、という。

「私にとってミラルは、『鹿の王』のときから心の中でとても大きな存在でした。多分、根本的な部分が自分とよく似ていると思うんですね。立場が変わればすべて変わる、普遍的に正しいこと、真理と思われていることの多くは、人々の間から生み出されていくもので、それらすら、不変ではないという気がしているところが」

ホッサルとは身分が違うために、結婚することはありえないと承知の上で連れ添ってきたミラル。今回の物語では、ホッサルとミラルの恋にも、ひとつの結末が訪れる。その行方を辿りながら読むと、タイトルの『水底の橋』にこめられた重層的な意味が見えてくる。

病は社会全体が持つ物語のなかにある

「死生観は、社会に張り巡らされている価値観の根幹に深く関わっていますし、ましてや、国家宗教と医療が結びついているとなったら、そこには頑強な力が生じるでしょう」

医術の対立は、次期皇帝の座を巡る政争と結びつき、事態は、やがて、とんでもない方向へと転がっていく。

ホッサルが、ミラルが、真那が、そして2つの医術に関わる医術師たちが、それぞれの死生観と葛藤しつつ、医療だけではない、それを包み込む大きなものと対峙せざるを得なくなるのだ。

「病というものは個人のものではなく、社会全体が持っている物語のなかにあると、私は思っているんです。その物語に照らし合わせながら、個人、あるいは医師が様々に葛藤しているのではないかと。病が社会的なものであるとすれば、医師というものは、社会の死生観を反映しているものなのではないかと。でもね、病んだら苦しいのはどんな生物も同じ。そして、人は、自分のことだけでなく、苦しんでいる他者を見たらたすけたい、と思う。そこが、私にとっては、もっとも胸に響くところなんです。今回物語を書くことができたのは、人をたすけたい、と思う人の姿が、私を揺さぶってくれたからなのだと思います」

『鹿の王』から4年半。新たな物語は、先の展開が読めないサスペンスの躍動感を持ちながら、同時に、人の命というものと、医療の在り方を問うてくる。

「ヴァンとユナの話じゃなくて、ごめんなさい(笑)。それを求めている方はきっと多いと思いますが、私の場合、なんというか、生まれてくる話は選べるものではないんです。物語のほうが私の主人なんです」

取材・文=河村道子 写真=冨永智子