「プロレスとは、それぞれの自己表現の対決」――■対談 飯伏幸太×千葉雅也【プロレス×哲学】

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公開日:2019/8/10

対談 飯伏幸太×千葉雅也

磨き抜かれた美しい肉体と高い身体能力を生かした激しい技で業界内外から熱い視線を送られる、新日本プロレスの飯伏幸太選手。哲学者の千葉雅也さんにとっては、プロレスに興味を持つきっかけとなる人物であり、プロレス論〈力の放課後〉執筆にも影響を与えた人物だという。千葉さんからの哲学的な投げかけを飯伏選手が“受け”、独特の表現で“返す”、哲学対談。

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(左)いぶし・こうた●1982年、鹿児島県生まれ。2004年、DDTプロレスリングでデビュー。13年~16年、新日本プロレスとDDTプロレスの2団体所属選手に。約3年のフリー(飯伏プロレス研究所)生活を経て、19年より新日本プロレス所属に。得意技はカミゴェ、フェニックス・スプラッシュなど。181cm 93kg @ibushi_kota

(右)ちば・まさや●1978年、栃木県生まれ。立命館大学大学院先端総合学術研究科准教授。東京大学大学院博士課程では表象文化論を専攻。著書に『動きすぎてはいけない――ジル・ドゥルーズと生成変化の哲学』『勉強の哲学――来たるべきバカのために』など。『新潮』9月号に、初小説「デッドライン」を発表。@masayachiba 

 

ケガをしたことで、新しい自分ができあがる

千葉 足首をケガされたばかりなんですよね。大丈夫ですか?

飯伏 はい。回復力がすごいので、もう大丈夫です!

──千葉さんは以前から飯伏選手のファンでいらしたそうですね。

千葉 はい。僕が最初にプロレスに興味を持ったきっかけは飯伏さんです。DDT時代の路上プロレスとか、ヨシヒコ(人形)選手との試合を観て、とにかくかっこよくて存在感がすごい人がいる!と。

飯伏 ありがとうございます。嬉しいです!

千葉 今、プロレス人気が復活した感がありますが、飯伏さんが小学生の時にプロレスを観て「これだ!」と思った時の感覚と、今、みんながプロレスに集まってくる感覚って同じなんですかね?

飯伏 集まる人の感覚はちょっとわからないんですが……プロレス自体は、僕が観ていた90年代のプロレスと、今僕がやっているプロレスは別ものですね。別の職業というくらい違う。昔も今ももちろん“闘い”なんですけど、自分が今やっているプロレスには“表現”という言葉が一番しっくりくるかなと。

プロレスは“贅沢”、シーンの一つ一つに味わいどころがある

千葉 以前インタビューで「全てが表現」とおっしゃっていましたよね。

飯伏 “それぞれの自己表現の対決”という面がより強くなっているのかなと感じますね。

千葉 たぶん僕はそこに惹かれたんだと思います。プロレスは“最短距離で勝つ”ということじゃない。総合格闘技やボクシングは一瞬でKOする、“最も効率よく勝つ人が最強〟ということなのかなと。

飯伏 そうですね。

千葉 今、ビジネスでも勝ち残ればOKみたいな、ギスギスした世の中になってきている気がして。そういう中でプロレスには大げさなジャンプのような表現があって“贅沢”だなと思ったんです。アートだな、と。試合は動く彫刻の連鎖のようでもあるし……首をそらした時の苦悶の表情とか、いろんなシーンがフラッシュのように思い浮かびますが、その一つ一つに味わいどころがある。僕は仕事で文化とかアートに関する文章を書いているので、“ムダ”なことをやっているわけです。そことも通じる気がしますね。世の中がきつくなっているから、贅沢なものをプロレスに求めるようになったのかなと。

飯伏 “ムダ”な部分が大事で……というか僕は“ムダ”じゃないと思うんです。“ムダ”な部分を増やせば増やすほど、それは“ムダ”じゃなくなる。

千葉 おお……いいですねえ!

飯伏 デビューした頃から、先輩たちに「ムダな動きが多すぎる」とずーっと言われてきたんですけど、一度も後悔したことはない。今も、このケガをしてよかったと思っていて。左足が使えなくなったことで、左足を使わない試合をするはずなんです。

千葉 そこで何かクリエイティブなことが起きるんですね。

飯伏 新しい自分が絶対にできあがる。回復した時には、今までの動きができるうえに、左足を使わない新しい動きもできるようになるわけで。かなり得した気分です(笑)。

千葉 いやあ……完全に哲学ですね。常に完璧なコンディションで効率よくパフォーマンスを出せばいいということではなくて、ケガも含めて不自由な中でどんどん変身していく、という感じでしょうか。

飯伏 はい、まさにそうですね。

「ごっこ」のまま上がらずにいたい

──千葉さんは、自分のプロレスは「プロレスごっこの延長」だという飯伏さんの発言に勇気をもらった、とおっしゃっていましたね。

千葉 仕事への取り組み方に共感するところがあって。僕も仕事で文章を書くことが“ごっこ”の延長という感じなんです。高校生の頃に評論とか哲学書を読んで、「こういうものを書けるようになりたい!」って思ったんですよ。どうやったら一番「それっぽい」文章になるのかを考えて書いていた。そのうちにプロになって、人に教えたりもするわけですけど……“ごっこ”を抜けて“上がった”という感覚を持ちたくない。飯伏さんも上がらないようにしているのではないですか?

飯伏 はい、どこかでセーブしていると思います。上がってしまうと“ごっこ”の部分がなくなる恐怖感があって。自由がなくなるというか、幅が狭まるというか。

千葉 飯伏さんには上がらずにいるヒリヒリした感じがあって、そこがカリスマ性なんだと思う。ただ、上がっても、その状態で魅力を発揮する人もいると思うんですよ。棚橋(弘至)さんはそういう人かなと。

飯伏 ああ!

千葉 棚橋さんは上がったところで炸裂している感じがします。華やかさと落ち着きを兼ね備えている。飯伏さんも上がってそうなるのか、上がらないのか、気になってます。

飯伏 僕は上がらず、さらに突き進む気がします。

千葉 ヒリヒリ感はなくならずに。

飯伏 なくなったら……僕の場合は、終わりだと思いますね。

 

プロレスで最終的に搾り出されるのは、相手を屈服させる暴力ではない。各々に独特の自己破壊のヴァリエーションをさんざん試し合った果てに、さらに別の自己破壊へと――さらなる「石塀」の向こうへと――旅立ち直すことができる余力がそれでもあるかどうかということが、プロレスの勝敗の意味するところなのである。      「力の放課後――プロレス試論」より

運動神経=運動想像力

──千葉さんのプロレス論〈力の放課後〉では、プロレスラーのことを、放課後に遊ぶやんちゃな子どものように石塀の「向こう側」へ飛び越えることのできる人である、と書かれていますね。

千葉 はい。僕は勢いのまま一線を越えるということがどうしてもできないんです。幼稚園の時にハードル走があったんですけど、僕は足をひっかけて倒したハードルを一度戻って直してからまた走ったらしくて。親戚の語り草になってます。

飯伏 それは、本番で、ですか?

千葉 本番で(笑)。僕の人格の根本を示しているなと思います。どうやったら倒したハードルを無視して突っ走ることができるんだろうと、ずっと考えています。そういう時に飯伏さんのすごいジャンプを見ると、「壁の向こうに行ける人なんだろうなあ」と思う。どうやったら行けるのか教えてほしいです。

飯伏 僕は、2つ上の兄とその友達と遊んでいたので、年齢よりちょっとレベルが高いというか、危ない遊びが多かったんですよね。負けず嫌いなので、一緒にやってしまう。高いところから飛んでケガをしたら、激痛に耐えながらすぐにもう1回同じところから飛び降りて克服していました。「もうこれで大丈夫だ」と。そこでやらないと、トラウマになって一生その動きはできなくなります。もちろんほかの人にもそれをすすめるわけではないです(笑)。

千葉 トラウマ化しない技術ですね。プロレスラーというのは“動けちゃう”人でもあると思うのですが。

飯伏 でも、動けなくてもプロレスラーになっている人はいますね。「あ、この人は運動神経が悪いな。でも、ごまかして動けるように見せているな」っていう人もたくさんいます。

千葉 どこでわかるんですか?

飯伏 試合でロックアップした(組み合った)時点で「ああ」と。もっと言うと、対峙した時点でなんとなくわかりますね。

千葉 そうなんですか! 飯伏さんはきっとネイティブというか、最初から動ける人ですよね。

飯伏 小さい頃から運動神経はよかったですね。

千葉 “動けちゃう”っていうのは、どういうことなんでしょう。

飯伏 うーん……想像したことはだいたいできるので……。

千葉 想像ですか?

飯伏 想像ですね、全ては。動きを見て、一回想像できたら、できます。

千葉 ああ……なんて美しい話なんだ!

飯伏 見てすぐにはできないんです。見て、一回自分の中に持ち帰って……その場で頭の中に持ち帰る感じなんですけど、頭の中で1分くらいその動きを想像してみる。そこで想像できたら、実際にできます。

千葉 頭の中で組み立てているんですか? こうして、こうしたらヒュッといくな、みたいな。

飯伏 そうですね。

千葉 想像している時って、言葉は入ってこないですか?

飯伏 ……(目をつぶって想像している)言葉は入ってないですね。

千葉 イメージだけ?

飯伏 うーん……脳と体の神経のつながりを想像するというか……自分の体がこうだとすると……あ、これできるなっていう感覚ですかね。

千葉 めちゃめちゃおもしろい!

飯伏 子供の頃からそうでしたね。逆に2~3回やってみてもできない動きは一生できないです。

千葉 じゃあ動けない人というのはどういう状態なんでしょう。

飯伏 そこのつながりが悪いのか、ゆっくりつながるのか……それが“運動神経”がいいとか悪いとかいうことなのかもしれないですね。

千葉 “運動想像力”と呼んだほうがいいものかもしれないですね。「一回持ち帰って想像する」っていうのがすごくおもしろい。哲学者っぽい話をすると……人間には、「自分の体はこうなっている」という“身体図式”というものがあると言われていて。たとえば、腕を切断された人がないはずの指先が痒い、と思うことがあるらしいんです。幻肢っていうんですが、体のイメージが残っていて、そこが痒いということが起きてしまう。飯伏さんのように運動神経がいい人というのは、身体図式の操作がうまいということなのかもしれませんね。

飯伏 その感覚に近いかもしれないです。

──千葉さんは今、筋トレをされているそうですね。

千葉 そうなんです。あの……体って、どうやったら今から動くようになると思いますか?

飯伏 普通の話になってしまうんですが……脳と体の神経をつなぐ動きをトレーニングするといいのかなと。たとえば、立ち幅跳びで自分が跳べる距離に線を引く。そこに、ちょうどかかとを合わせて着地できるように練習をするんです。

千葉 その線ジャストに、跳ぶ?

飯伏 はい。意外と難しいんですよ。それができるようになってくると、脳と体の神経のつながりがだんだんよくなってきます。

千葉 なるほど! 空間をあらかじめ想像して、体がその空間に合わせて動くように神経のつながりをよくする。それを最小限のタスクで繰り返して、複雑な動きにだんだん広げていく。ということですか?

飯伏 そうです。どんどん運動神経がよくなっていくと思いますよ。

千葉 やってみます!

言葉の一番やばいところ、体の一番やばいところ

千葉 今言ったように、僕はプロレスラーの人たちを憧れの目で見ているわけですが……言葉の世界では、僕も相当やばいジャンプをやっている気はしていて。普通はそこまで言わないだろうということを言葉にするので。言葉でも体でも両方ジャンプする、とはいかない気がしますね。

飯伏 ああ、わかります!

千葉 哲学者のような、複雑なものを書くもの書きには、僕のように運動神経が悪い人が多い(笑)。始終頭の中に言葉があふれていると、体を動かすのに邪魔になる感じがあって……『意味がない無意味』という本では「考えすぎる人は何もできない。頭を空っぽにしなければ、行為できない」と書いたんです。飯伏さんのような人は、体にエネルギーがまわって爆発していて、僕の場合は言葉のほうにエネルギーがまわって爆発している。ほどほどではなくて、本当にやばいことをやっていると、片方に寄ってしまう。言葉の一番やばいところか、体の一番やばいところか……。両方やれるのは完全に壊れている奴ですね。

飯伏 壊れてますね(笑)。僕は、言葉は苦手で。言葉のプロレスみたいな言い合いも、マイクアピールも試合後のコメントも苦手です。

千葉 そこにも飯伏さんの神秘的な、どこか不安定な感じが出ていて、魅力的だなと思いますけどね。「ただ体としてここにある」という緊張感は群を抜いていると思います。しゃべれて体も動く、総合的に魅力のある方もいますが、飯伏さんのような“やばい”感じとは違いますよね。“やばい”とは、芸術的な感じということなんですけど。

飯伏 本当ですか?(笑) たぶん僕は……どこかがおかしいんだと思います。周りにいる人たちにもそう言われるんですが、自分ではわからなくて。

千葉 選手同士の間ではどういう扱いをされるんですか?

飯伏 いやあ……ちょっと変わった奴だと思われているのを感じますね。でもみんな、やさしくしてはくれます。

千葉 やさしくしてくれる?

飯伏 はい、なぜか(笑)。たぶん僕の頭がおかしいからだと思います。

千葉 やっぱり新日本プロレスの中で一人だけ存在感が独特ですよね。

プロレスでは“受け”を中心に全てが回っている

千葉 〈力の放課後〉では、プロレスの勝敗についても書いているんです。表現としての技をかけあっていくなかで、どれだけ受け続けられるかがポイントであり、最終的な勝ち負けは最後までエネルギーが残っているかどうかで決まるんだ、と。

飯伏 わかります。プロレスは“技を受けて返して”の繰り返しなので、受けられる数が多いほど、攻める数も増やせる。だから受けられる人ほど強いといえますね。

千葉 僕がそれを書けたのは、以前飯伏さんがプロレスの“受け”を大事にしているとおっしゃっていたことが頭にあったからだと思います。

──飯伏さんは小学校の時すでに、自分が“受け”にまわった時に見ている人が沸くことに気づかれたとおっしゃっていました。

飯伏 プロレスを観始めて2カ月くらいで気づきましたね。「あ、これがプロレスなのかな」と。

千葉 単に試合展開のために“受け”を考えなくちゃいけないという弱い意味じゃなくて、もっと強い意味でおっしゃっていますよね。受けるということを中心にすべてが回っているんだ、というくらいの。観客も“受け”を視点に全部を見ている。

飯伏 はい。総合格闘技はたぶん“攻める”を中心に見ていて、プロレスは“受ける”を中心に見ていると思います。

千葉 “受け”の話を僕のことに引きつけると……物書きの人と対談やトークショーをすることがよくあるんですけど、プロレス的な言葉の闘いになることもあって。そこで大事なのは、自分がべらべらしゃべることではなくて、“相手の話をどう聞くか、いかにしゃべらせるか”なんです。それは“受け”なのかなと。それがうまくできたら、自分の次の発言が出てくる。プロレスと同じ考え方のように思います。

飯伏 ああ、本当ですね。

千葉 今日の大きなテーマは“受ける”こと、“受動性”な気がしますね。やられたら受けるしかなくて、その後どう反応するか。そこから生まれるものがある。飯伏さんが足をやられたことで体が変化していくこともそうですよね。“受動性のクリエイティビティ”というものが、飯伏さんのプロレスの中にはっきりとある。僕の仕事にもそういうところがあるので、飯伏さんのプロレスに反応していたのかなと思いました。

飯伏 いろいろ共通点があるんだなと思いました。僕は頭がよくないので(笑)、難しい言葉はわからないですけど、勉強になります。

千葉 お話を聞いていて、飯伏さんはすごく自分の体に合う言葉で話されている感じを受けました。運動神経の説明の仕方とか、すごく独特でおもしろかったです。

──飯伏さんからあまり聞いたことのないお話でした。千葉さんとの対話だからこそ出た言葉というか。

飯伏 初めて言ったと思います。

千葉 僕の質問を“受けて”、返してくださったんですよ(笑)。

飯伏 ああ! だからああいう発言が出せたんですね!(笑)

 

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『NEW WORLD「新日本プロレスワールド」公式ブック』掲載の「力の放課後――プロレス試論」を含む、2005年~2018年までに発表された論文、エッセイを収録。「ギャル男」(「あなたにギャル男を愛していないとは言わせない」)やクリスチャン・ラッセン(「美術史にブラックライトを当てること」)など親しみやすいテーマについての考察も。

 
 

 
 

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取材・文:門倉紫麻  写真:干川 修  イラスト:広く。