極彩色の「カワイイ」カルチャーは闇から生まれた光だった。増田セバスチャン『家系図カッター』インタビュー【前編】

芸能

更新日:2016/11/17

増田セバスチャン氏@アトリエにて

 原宿を拠点にした「カワイイ」文化の発信者で、今や世界中の注目を浴びている増田セバスチャン。脳裏に焼き付く極彩色の世界とジャンルを超えたクリエイターとしての原動力の源は何なのか? このたび文庫化された自伝『家系図カッター』(角川文庫/KADOKAWA)で明かしている崩壊した家族と自分を否定し続けてきた偽善社会に対する復讐心について本人が語ってくれた。

知らないほうがよかった自分のルーツ

――『家系図カッター』の親本が出たのは2011年2月。今から5年前ですね。そのタイミングで自分と家族の過去をカミングアウトしようと思ったのはなぜですか?

増田セバスチャン氏(以下、増田) 最初は、原宿からはじまった「カワイイ」カルチャーがなぜムーブメントになったのか書いてくれと言われたんです。そうなると自分の歴史までさかのぼる必要がありました。そこで編集担当者に過去のことを話していたら「そっちのほうが面白いですよ」と言われまして。自分は面白くもなんともないし、むしろ公にしたくない話だったんですが、求められているのであれば書きましょうと。それから自分の親に取材もしたんですが思っていたより大変で、母親のルーツとか知らないでいいことも多かったので、それが一番きつかったですね。

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——お母様が複雑な環境で生まれたことなど、詳細に書かれていますね。

増田自分もそういう家系の血を引いているんだなと思いました。でもこれを書くことによって、僕が原宿から発信したカルチャーの根幹を知りたかったし、それが単なるブームを超えて世界に求められている理由を知りたかったので覚悟が決まりました。

僕がカラフルな極彩色や原宿にこだわったことは、自分の意思や偶然によるものだったはずだけど、何かに吸い寄せられてきたような感覚があるんですよ。それがこの本を書いたことで偶然ではなく必然だったとわかって引っかかっていたものがなくなった。だから、その後の活動はものすごくスピーディーになりました。

みんながみんなサザエさんみたいな家族ではない

――たとえばどんな気づきがあったのでしょうか。

増田自分の家系図を考えたとき、この世はサザエさんのような家庭だけでできているわけじゃないことを認識できたんです。隣の人も外国人もみんなが両親と子供が揃って食卓を囲む幸せな家族なわけじゃない。でも学校教育って、サザエさんの家庭みたいなものをつくらなきゃいけないという考え方ですよね。そのためにはどうすればいいのかっていうことをすごく喧伝されるわけです。

全然違う家庭も全然違う生き方もあるのに、隠してわからなくしている。だから自分を例にとって、こういう家系図やこういう生き方もあるし、むしろそういう人のほうが今は多いんじゃないかなっていうメッセージを伝えたかったんです。

――それが増田さんの創作活動の原動力にもなっているんですね。

増田それはありますね。僕は小さい頃からダメだダメだと言われ続けて、絵を描いても何をやっても全部否定され続けてきたんです。周りの子は習い事とかやりたいことをやらせてもらっていて、自分ももっと自由に楽しくやりたいのに…。こうして今、寝る時間もないほどハードな生活に耐えて頑張っていられるのは悔しかったからです、当時のことが。

大人になるのが早くて冷めた目で見ていた

――ご両親がそれぞれ導かれて行く様々なトラブルに、増田さんは荒れることもなくどこか一歩引いてみているようなところがあります。

増田親を殴ってもどうしようもないと思ったのと、そういう親をどっかでかわいそうと思っていたフシもあるんです。あまりにもダメ過ぎて。弁当も料理もつくれない母親をみてもっと上手く生きればいいのにって。

――毎週末、自宅のある松戸から原宿まで電車で行って原宿の“オール仲間”たちとゲーセンやクラブで夜通し遊びまくって。そこが唯一の居場所だったわけですが、悪い友だちとは一線を引いている。大人になるのが早かったんでしょうか。

増田そういう感じはありましたね。前にタモリがテレビで、幼稚園児だった頃にみんなが手をつないでお遊戯しているのをみて「バカじゃないの」と思ってたと言ってましたけど、同じようなことは感じていました。日本は何でも平均的に育てようとするから、早熟な子はいろんなことを冷めた目で見てしまう。でもあの週末の原宿がなければ、僕もどうなっていたかわかりません。週末があるから平日の5日間も耐えられたので。

アングラ劇団で教科書的じゃない世界に目覚める

――そのぐらい原宿は増田さんにとって大事な町だった。でもその後、大坂に引っ越して2年間ほどそこで引きこもりになってしまいます。なぜ大坂に?

増田仲間には本当に悪い奴もいて、何十万もする携帯電話をマルチ商法で売るようなことをしていた奴から僕も誘われたんです。でもそれをやったら人間としておしまいだと思って逃げたんですね。最初はニューヨークに行きたかったんですけど、『地球の歩き方』を買って読んだら地下鉄が危ないって書いてあって怖くなった(笑)。それで大坂の専門学校に入ろうとしたら入学手続きの書類にミスがあって、面倒くさくなってそのまま2年間放置して。基本的にヘタレなので、何をやるのも中途半端な感じでした。

――その頃、寺山修司の『書を捨てよ、町へ出よう』に影響を受けて過激なアングラ劇団に入ったことで、本名を捨てて「増田セバスチャン」として生きるようになります。その頃から、ずっと閉じこもっていた殻を破るように活動的になっていきますね。

増田それまでずっと教科書的な生き方を押しつけられていたけど、そうじゃない世界もこの世の中にはたくさんあるんだってことを知ってハマっていったんですね。音楽でも演劇でもアートでも、そういうものに触れているときが一番楽しかった。その頃、自分がやりたいことが少しずつ見えてきました。

取材・文=樺山美夏 写真=山本哲也

後編はこちら】「僕は世の中に対する怨みがあるんです。自分を封じ込めてきた社会に対する復讐心がある」