いじめ、不登校、4回の失恋、受験の失敗……。栗原類「でも僕には母親と主治医がいてくれた」 【インタビュー後編】

更新日:2016/10/24

――小学5年で帰国してから中学卒業までの5年間は、暴言を浴びたりいじめに遭ったりと地獄の日々だったんですね。2週間ほど不登校になったこともあったそうですが、それでも学校に通い続けることができたのは?

栗原類さん(以下、栗原) ひとつは心を許せる仲のいい友達がいたからです。中学に入ってすぐ上級生に脅されて登校拒否になって、「学校に行きたくない」と言ったら母親に「じゃあ転校する?」と言われました。親としてはそれが正しい判断だったのかもしれませんけど、仲のいい友だちと離れるのが嫌だったので何度も話し合って転校はしませんでした。小学生の頃からお世話になっていた主治医の高橋先生も、嫌なことはこの先もずっと続くから耐えることも必要だと第三者として意見を言ってくれたので、中学校に通い続けることができました。

『発達障害の僕が輝ける場所を みつけられた理由』(KADOKAWA)

――高橋先生は、類くんは中学時代に「心の体力」がついたと言っていますが、自覚はありますか?

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栗原 自分では自覚はないですね。ただ仲のいい友だちに会いたい一心で、本当にイヤイヤながら学校に行っていただけなので。友だちといるとき以外は本当に我慢の連続で、毎日すごく辛いしつまらないし最低の日々でした。

――日本の学校は先生もスクールカウンセラーもまったく頼りにならないというのが、悲しい現実ですね。

栗原 高橋先生も、「スクールカウンセラーは学校がそこまですすめてくれるなら行くだけ行ってみて」と言ってましたからね。「それでピンときたら相談すればいいし、ダメだったらもう行かなくていいよ」と。

――でもそのあと先生がフォローしてくれるわけではなかった?

栗原 そうなんです。そういう学校の対応やカウンセラーの頼りなさに不満はありましたけど、日本の小学校に入ったときからそれは変わらないので、慣れていたところもあります。そのぶん母親や高橋先生が話を聞いてくれたので、なんとかバランスを保つことができて大丈夫でいられたのかなと思います。

――中学時代に4回告白して4回フラれたエピソードは、ちょっと意外でした。すごく積極的だなと思って。

栗原 まあ普通に、好きになった人に自分の気持ちをストレートに伝えただけなんですけど(笑)。4回目のときは、小学校から一緒だった女の子を中学の卒業式の1カ月前に呼び出して、バラを渡して「好きです」と告白したら案の定フラれました。その理由はわからなかったんですけど、ある人に話したら「類くんは、その子と一緒に遊んだりいろいろ話をしたことはあるの?」と聞かれたんですね。「ないです」と答えたら、「相手が自分のことを知らなかったら、告白しても自分の気持ちをわかってもらえないよ」と言われて、「そうか」とそこではじめて気がつきました。ぶっちゃけ、それも2、3年前の出来事です(笑)。

――14歳でモデルの仕事をはじめて、改めて自分の障害と向きあうことになったわけですが、一番大変だったことはなんですか?

栗原 時間の管理ですね。頭ではわかっていてやる気もあるのに、自分でうまく時間配分ができないので遅刻癖が直らなくて。今もそこは変わらないので苦労します。モデルの仕事の場合、撮影現場にはひとりで行かなきゃいけないので、方向音痴で地図も読めない僕は道に迷ってばかりでした。高校時代にスマートフォンを使うようになってから、GPSで居場所を母にリアルタイムで知らせることができるようになったので、道に迷ったときは遠隔操作で道案内をしてもらえるようになりました。予定をリマインダーに入れておくこともできるので、発達障害児にとって文明の利器は賢く使えば強力な武器になります。

――高校時代は仕事も学業も頑張って、いい友だちともめぐり会えてとても充実した日々だったようですね。その時期が栗原さんの人間形成の土台づくりになったのかなと思いました。

栗原 その学校はまったく知らない人ばかりの世界で、中学時代に不登校だったような子もわりと普通にいたので、お互い細かいことを詮索しない落ち着いた雰囲気だったのがすごくよかったですね。自分からはじめて友だちをつくることもできて、苦手だったコミュニケーションにも少し自信を持てるようになりました。得意の英語を生かせる授業や合宿で褒められたことで、自分を認めてもらうことの喜びも知ることができました。僕は小学校5年で帰国してから中学3年までの5年間は、否定されたり冷たい目で見られたりいじめられたりした逆境の時代だったので、高校の新しい世界はすべてを受け入れてくれるはじめての場所だったんです。

――お母様から教えられた生活習慣など、身の回りのことも少しずつ自分でできるようになりましたか?

栗原それはなかなか難しいですね。普通の高校生ができることもできなかったし、今も普通の21歳の人ができることでできないことはいっぱいあります。たとえば僕は靴紐の結び方がまったくわからなくて、ずっと紐がない靴を履いていました。靴紐があるものを買っても母親に結んでもらって、モデルの仕事のときはスタイリストさんが結んでくれるので自分でやらずにすみました。でもやっぱりそれじゃいけないと思って練習して、自分で結べるようになったのは10代後半の頃でした。

でもそれでいいと僕は思うんです。できないことがすごく多かったんですけど長い目で見て、今できなかったとしてもいつかできればいいと思っていました。今はムリでもいずれできるようになりたいなという気持ちを忘れなければ、多分きっと大丈夫だと思います。

――できないことがあっても決してあきらめることなく、類さんを信じて寛容に伴走してきたお母様の存在も大きかったですね。

栗原 母は僕の一番の理解者です。数え切れないほど迷惑をかけてきましたけど、自分の考えを押しつけることはしませんでしたし、ことあるごとに僕のために戦ってくれました。モデルや役者といった仕事に興味を持ったのも、映画や音楽を好きになるきっかけをつくってくれたのも母親で、そういった共通の話題について話し合える人が身近にいることにも感謝しています。何でも気兼ねなく相談できる高橋先生もずっと心の拠り所だったので、本当にありがたいと思っています。

――仕事にはだいぶ慣れてきましたか?

栗原 僕の場合、今の仕事を何年やっていても集中力は長く持ちません。キャパシティをオーバーすることも多いんですけど、今の事務所に移籍して自分の症状について母親と一緒に説明し続けてきたことで、だいぶ理解していただけるようになりました。まだまだ迷惑をかけることもありますが、僕に合わせた無理のないスケジュールを組んでいただけるのですごく感謝しています。

 できない自分を責めて追い詰めるのではなく、できないことを相手に伝えて助けを求めれば、手を差し伸べてくれる人がいます。もし今、何かをあきらめたり、あきらめそうになっていたりする人がいたら、僕の本を読んでまた頑張ろうと思うきっかけになってくれたら嬉しいですね。

取材・文=樺山美夏 写真=内海裕之

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