がんで余命半年と宣告された小説家が遺した5カ月の記録。山本文緒氏が最後まで読み、書き続けてきた末の言葉とは?

文芸・カルチャー

更新日:2023/1/12

無人島のふたり 120日以上生きなくちゃ日記
無人島のふたり 120日以上生きなくちゃ日記』(山本文緒/新潮社)

 通読するのに相当な覚悟がいるだろうなと思っていた。受け止められるかどうか不安でもあった。小説家の山本文緒氏が、膵臓がんと診断されてから、逝去するまでの5か月を綴った本だと知っていたからだ。

無人島のふたり 120日以上生きなくちゃ日記』(新潮社)は、当時58歳だった小説家の山本文緒が、がんを告知されるところから始まる。山本氏の病は既にステージ4まで進行しており、余命は約半年だろうと知らされるのだ。

 抗がん剤を試したが自分には合わないと判断した山本氏は、緩和ケアを受けることを選択。夫とふたりで軽井沢の自宅で多くの時間を過ごすことに。病に臥せる氏を、既に仕事を退職した夫が全面的にサポートした。がんを告知された夫婦のことを「無人島のふたり」と表現することからも、ふたりが手に手を取り合って辛い日々を乗り越えてきたことが分かる。「突然20フィート超えの大波に襲われ、ふたりで無人島に流されてしまったような」心境だったという氏の表現も腑に落ちる。

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 山本氏と夫は二人三脚で病に立ち向かうが、介護を手伝う上で夫のやるせなさや憂いが露呈することが時々あった。例えば、いつも山本氏に寄りそっていた彼が、ちょっと今はひとりで酒を飲みたい気分だから、と述べて氏のそばを離れるくだり。献身的な夫の辛さや悲哀が滲み出ており、読んでいるほうもほろ苦い切なさが込み上げてくる。

 なお、山本氏ががんを告知されてからの日々を綴ることにしたのは、やはり作家としての性ゆえだったのではないか。時に文章を書くことで自分を客観視したり、時に辛い想いを吐き出したりもする。現実を受け入れるのは多少時間がかかったようだが、日記を書くことで荒れ狂う感情を抑制し、整理してきた。そう思って間違いないだろう。

 氏は死ぬまで作家であることを貫き通した――。そう言ってもいいだろう。日記を遺したのは、やはり文章を書くことが彼女のアイデンティティだったからだと思う。病状が悪化するにつれ、めまいが酷くてスマホもパソコンも見るのが苦痛になってしまうが、そこは元編集者だった夫の出番。仕事のメールの送受信を、内容を把握した夫が代わりに行った。氏は、読み、書くことを最後の最後までやめなかった人でもあった。金原ひとみ氏の『アンソーシャル ディスタンス』を「死ぬことを忘れるほど面白い」と述べ、吉川トリコ氏の『余命一年、男をかう』を賛美し、漫画の『きのう何食べた?』の最新刊を読んだことも書いている。最後の最後まで、氏が活字と深い関係を保ったことがよく分かる。「未来はなくとも本も漫画も面白い。とても不思議だ」とも氏は述べている。

 書かずにはいられなかった。あるいは、書くことで助けられた。筆者はそんな氏の文章に感極まり、落涙した。こういう状況だからこそ生まれた、いや、こういう状況でしか生まれえなかった言葉が、本書には並んでいるからだ。この記録を書くことで「頭が暇にならず良かった」と氏は言っている。最後のページには「今日はここまでとさせてください。明日また書けましたら、明日」という一文がある。それが最後の言葉だった。ありきたりな言い方だが、作家が死んでも作品は残る。氏の死去をきっかけにその存在を知った人でも、これから作品に出会うことができるのだ。

 そこで、山本文緒でまず一冊読みたいという読者には、吉川英治文学賞と山本周五郎文学賞を受賞した『恋愛中毒』や、島清恋愛文学賞や中央公論文芸賞を獲った『自転しながら公転する』をお勧めしておこう。彼女の小説家としての偉大さを実感できるはずだ。

文=土佐有明

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