美味しいものは鼻で見つかる/生物群「やさしい食べもの」⑤

文芸・カルチャー

更新日:2022/6/24

 自炊をこよなく愛する内科医・生物群による、どこまでもやさしい食エッセイ。忙しない日常のなか、時に自分を甘やかし、許してくれる一皿の話。

 大好きな生ライチの季節がまた来ました。

 生ライチは、日本では一部の国産高級品を除いてほとんど輸入でしか流通しないのに、果物にうとい私が虎視眈々と狙う季節の果物のひとつです。人が生ライチを食べようとするとき、ひび割れた硬くて乾いたうろこみたいな皮が、指でいとも簡単に剥けて、すぐに舐めるのも間に合わないくらいぷつっと溢れ出した汁が指へ手首へしたたってきます。花とミルクの間のような香りと味が渾然一体になって、果肉はさっと熱湯をかけた海老の身のような見た目で、半透明ではじけるでもなく歯の下でしぼむように潰れ、また花とミルクの香りが広がっていき、ひとつ食べるたびに口と指と手がおぼつかず、うまくいかないときは服やテーブルもどんどん甘い果汁で汚れていく、面倒で甘美な果物。

 仕方のないことながら、大人になってから、自分が成長したと実感できることがあまりないのですが、嗅覚だけが抜群に良くなったと感じます。視力が落ちたり、疲れやすくなったりしたのと引き換えに鼻がだんだん良くなってきて、色々な美味しいものを見つけることが増えてきました。生ライチはふつうの八百屋で売っていることはあまりなくて、私がよく手に入れているのは中華食材店の冷蔵ショーケースの中からです。インターネットに日本語の情報が掲載されていないこのお店を見つけたきっかけは偶然からでした。

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 ある初夏の日に、ひとりでごくふつうの下町の商店街のアーケードを歩いていると「あれ」の匂いがしてきました。この匂いは、タイの路上でこの季節に特によく嗅ぐ匂い。熟成したクリーミーなウォッシュチーズのような、玉葱やにんにくのソースを拡張したような硫黄臭、こんなところに「あれ」が売っていることがあるのだろうか? 

 周りには八百屋、魚屋、豆腐屋、肉屋、薬局、赤飯やおはぎを売っている甘味処くらいしかありません。一体どこから……。匂いにつられて商店街から路地を入ると、そこには電飾と派手な看板と中文の貼り紙、そう、中国・タイ・ベトナム系の住民や中華・タイ・ベトナム料理店のための食材を扱う食材店があったのです。季節の果物として1個5000円のドリアンがレジ近くに積まれ、強烈なあの匂いを放って存在を主張しています。ちょうど炒めもののスターターに放り込める安価な乾燥唐辛子を探していた私は、入ってプラスチックの小袋に簡単に小分けにされた「パケの唐辛子」を手にとっていました。

 店内を見回すと新鮮な感動がふつふつと湧いてきて、いてもたってもいられなくなってきます。山のように積まれた乾燥米麺、火鍋のペースト、これでもかと小袋に詰められた八角、水槽の中のザリガニ、太刀魚、ねじった胡麻のお菓子、山楂子(さんざし)の薄くて小さなコインのような桃色の煎餅、甘い甘い缶ジュース、分厚い円盤のプーアール茶の塊、長くとぐろをまく青々としたささげ、大豆ではなく空豆を原料にした郫県豆板醤もあります。興奮した動物のようにうろうろするとバックヤードを隠しているアコーディオンカーテンがたまたま開いていて、その向こうには麻雀牌が散らばった緑色の麻雀卓とパイプ椅子が置いてあり、事務所を兼ねているようでした。良い。

「鼻」で見つけたその食材店に通ううちに、冷蔵ショーケースにいつもは見かけないライチがあることに気づきました。知らずに買って、ずいぶん高いな、そしてとんでもなく香りがよくて美味しいなと思ったのですが、どうやらそれが冷凍のライチではなく、旬の限られた生ライチだからだということにあとから気がつきました。

 今年は空輸の台湾生ライチを輸入した友人にフリーザーバッグに入れて分けてもらい、自分がぼんやりしている間にあっという間にこの季節が来たことを知りました。その翌日にあの異国感溢れる食材店に行くと、やはり!冷蔵ショーケースに箱入りの生ライチがありました。お店に取り置きをお願いした人の個人名がメモしてあるビニール袋もあります。生ライチを分けてくれた友人と自分以外にはまだ楽しみにする人を見たことがないのですが、密かに毎年楽しみにするライチファンがいるのかな。炭酸水の美味しい季節に、グラスに冷やした炭酸水を注いでライチと交互に食べて過ごす時間はきっとあとほんの少しです。

<第6回に続く>

生物群(せいぶつぐん)
東京在住。都内病院勤務の医師。お酒と食事が好きで、ときどき帰宅してから夜寝る前まで料理を作り続けてしまいます。


Twitter:@kmngr