三島由紀夫がひた隠しにした出自のコンプレックス/炎上案件 明治/大正 ドロドロ文豪史②

文芸・カルチャー

公開日:2021/1/27

三島が祖父を嫌う理由

 三島が祖父を嫌う理由は少なくとも三つあった。

 まず、本名・公威の由来である。

 三島の父・平岡梓が書いている。「僕の父の恩人で当時造船界の大御所であった古市公威先生のお名前を頂戴した」(『伜・三島由紀夫』)というのである。

 ついでに言えば、三島の弟の名前、「千之」も定太郎の恩人で当時の有力官僚、江木千之の名前をもらい、さらに三島の父「梓」も、定太郎が敬愛、師事していた、早稲田大学を創立した小野梓の名前に由来するという。

『噂』は、これについて「自分の嫌悪した祖父が出世の途上で世話になったという人物の名前を背負わされた三島由紀夫の気持ちはどうだっただろうか」と記している。

 祖父を嫌う二つ目の理由は、定太郎が樺太本庁長官を、汚職の嫌疑で辞めたことだった。

 これは、明治四十五(一九一二)年に行われた衆議院総選挙をめぐる疑獄事件である。

『噂』が引く大正三年の記事には「すなわち当時、総選挙を行いしに政友会は資金の欠乏を感ずること甚だしく七十万円のうち三十万円は原内相の手により、二十万円は元田拓殖局総裁の手に依りてこれを引き受け、残り二十万円はその半ばを台湾総督府に、他の一半を樺太庁に負担せしめた」とした。

 はたして平岡定太郎は、十七の漁場の操業を許可した樺太物産会社を作らせておいて十三の漁場許可を転売しこれによって三十万円を得、このお金のうち十万円を選挙費用として政友会に贈ったというのである。

 このことは『原敬日記』にも見え、大正三年六月三日に原敬のところにやってきた平岡定太郎は、樺太本庁長官を辞任したと記されている。

 しかし、疑獄はこれだけではなかった。

 定太郎は、印紙切手類販売事件でも起訴されていた。

 そして、もうひとつ、三島が定太郎を嫌う理由──。

 それは、平岡梓が書いているが、「子供が僕一人というのは、あながち母の邪推を待つまでもなく、その平常の振舞いからして父があるいはトリッペルにとっつかれていたためかと思われます」(『伜・三島由紀夫』)というように、派手な遊びなどで、定太郎は若い頃から淋病(トリッペル)に侵されていたというのである。

徴兵検査の真実

 ところで、『噂』はもうひとつ、三島が後年、ボディビルなどで身体を鍛え、自衛隊に体験入隊するような理由を、祖父・定太郎の出身地との関係から炙り出そうとする。

 三島は、『仮面の告白』で次のように記す。

「私のようなひよわな体格は都会ではめずらしくないところから、本籍地の田舎の隊で検査を受けた方がひよわさが目立って採られないですむかもしれないという父の入智慧で、私は近畿地方の本籍地のH県で検査をうけていた」

 これは、半分は噓である。当時、徴兵検査は必ず本籍地で受けなければならなかった。

 三島はまた、この本籍地で受けた徴兵検査のことをこんな風に書いている。

「農村青年たちがかるがると十回ももちあげる米俵を、私は胸までももちあげられずに、検査官の失笑を買ったにもかかわらず、結果は第二乙種合格で……」(『仮面の告白』)。

 しかし、これも事実ではなかった。

 昭和十九年五月、志方尋常高等小学校で行われた徴兵検査を三島と一緒に受けた、船江不二男(『農民文学』同人)が、この時の三島のことを覚えていた。『噂』にはこうある。

 

 加古川の検査場(現在の加古川市公会堂)に約百人の壮丁たちを集め、それぞれ越中ふんどし一つ締めた裸体で身体検査がはじまった。なりは小さくとも、いずれも野良仕事で鍛えた浅黒い肌の頑丈な体軀ばかりである。そのなかで白い平岡公威の頼りない軀はひときわ目立った。農村育ちの無作法な若者たちが、かれをからかうように、指さしてひそひそ話を交わしたりする。囲われたなかでは、性病・痔疾の検査がおこなわれる。全裸で四つん這いになって検査官の前に尻を向けるのである。平岡公威も、四つん這いになった。校庭で体力の検査がおこなわれたのは、これらの検査が終わったあとである。

 四十キロの重みをもった土囊を頭上に何回持ち上げることができるかというのが検査方法であった。

 船江は、土囊を六、七回も頭上に持ちあげた。他の青年たちも、そうであった。農村の若者たちにとっては、朝飯前の運動だったといってもよい。いよいよ、船江たちの見ている前で、痩せて白い軀の平岡公威が腰をかがめて両腕を土囊の両端にかけた。だが、いつまでたっても持ち上げない。いや、持ち上がらないのであった。やっと地上から離れたが、わずか十センチくらいの高さである。力を出しきっていないのかなと船江が公威の顔を見ると青白い皮膚は紅く染まっていて、あきらかに全身の力をふりしぼっていた。

 

『仮面の告白』では「胸までももちあげられずに」と書いているが、三島は、土囊を胸どころか膝までも持ち上げることはできなかったのだ。

 こうした肉体的な恥ずかしさをまざまざと見せつけられた徴兵検査の場所こそ、祖父、定太郎の出身地であり、三島にとっては消すことができない本籍なのだった。三島は『仮面の告白』のなかで、定太郎や加古川についてわずかに触れるだけで、年譜でも、祖母の死は記しても、祖父の死を記さない。してみると、あるいは仲野羞々子が言うように、三島の中には、確かに定太郎を受け入れたくないコンプレックスがあったのかもしれないのである。

 だが、祖父が成り上がったように、三島もそのコンプレックスがあったからこそ、平岡公威から三島由紀夫に成り上がれたのかもしれない。

こう生きて、こう死んだ

三島由紀夫 大正十四(一九二五)年~昭和四十五(一九七〇)年

東京に官僚の父、梓と、漢学者、橋健三の次女であった母、倭文重の長男として生まれる。本名、平岡公威。学習院中等科に入学するまで祖父母の元で育つ。十六歳で「花ざかりの森」を発表。学習院から東京帝国大学法学部に進み、卒業後は高等文官試験に合格して大蔵省に入省するも、九カ月で退職して執筆生活に入る。最初の書き下ろし長編小説『仮面の告白』で作家としての地位を確立。以後、唯美的傾向と鋭い批評精神に富む作品を発表。小説だけでなく戯曲、評論など幅広く活躍。三十代に入ってからボディビルで肉体改造を開始。やがて政治的な傾向を強め、民間防衛組織「楯の会」を結成。陸上自衛隊市ヶ谷駐屯地で東部方面総監を監禁、憲法改正と自衛隊員の決起を訴える檄を飛ばした後、割腹自殺を遂げた。作品は広く海外にも紹介され、ノーベル文学賞の候補にもなった。代表作に小説『金閣寺』『潮騒』『豊饒の海』、戯曲『近代能楽集』『鹿鳴館』『サド侯爵夫人』など。

<第3回に続く>

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