田山花袋の名作『蒲団』に赤裸々にあることないこと書かれた実在の女性/炎上案件 明治/大正 ドロドロ文豪史③

文芸・カルチャー

公開日:2021/1/28

花袋によって狂わされた美知代の人生

 しかし、それにしても『蒲団』が発表されて以降の美知代の人生は、永代以上にこの作品の影響によって翻弄されてしまうことになる。

 では、実際の二人の関係はどのようなものだったのだろうか。

 その真相をここに記しておこう。

『蒲団』では、備中新見町の田舎にいる若い女性としか書かれない岡田美知代だが、父親の岡田胖十郎は、備後銀行の創設者に名を列ね、後年県会議員を務める豪商で、母親ミナも同志社女学校を卒業した人だった。

 また長兄、實麿は、アメリカ留学後、神戸高等商業学校の教師を経て、夏目漱石の後任として第一高等学校教授となった英語学者だった。

 ちなみに永代は、明治四十一(一九〇八)年にルイス・キャロルの『不思議の国のアリス』をはじめて日本語訳し、『アリス物語』として発表した人でもあった。

 そして、岡田美知代も日本の翻訳文学史の初期に『アンクル・トムの小屋』(ハリエット・ビーチャー・ストウ原著)を『奴隷トム』(一九二三年、誠文堂)のタイトルで出版した他、雑誌や新聞に二百点以上の小説を発表しているのである。

 ところで、美知代が花袋にファンレターを書いて入門を願ったのは、明治三十六(一九〇三)年、十八歳のことで、この時、美知代は神戸女学院の本科三年生になっていた。

 翌年二月、美知代は神戸女学院を中退し、父・胖十郎に伴われて上京すると、牛込区若松町にあった花袋の家に寄宿し、後、花袋の妻の姉・浅井かくの家(麹町区土手三番町)に移り、女子英学塾予科に通う。

 この頃、まだ花袋は雑誌に短編小説を十数篇発表しているほどで、大して著名な小説家だったわけではなく、当時の大出版社、博文館に勤務していた。

 花袋は日露戦争が勃発すると、明治三十七(一九〇四)年三月から九月まで、従軍記者として中国に赴いている。この従軍中にも、花袋は美知代と文通をしていたらしく、手紙が数通残っている。やはり花袋は、美知代のことが好きでたまらなかったに違いない。

 明治三十八(一九〇五)年春、美知代は体調を崩し、一時実家に帰省する。そして七月、YMCAの夏期学校に参加し、同志社神学部の永代静雄と知り合うのだ。

 ところが、九月に上京する際に、京都でデートをしたことが花袋にバレてしまう。

「きみが上京すると書いて寄越した手紙と二日ほどの齟齬がある。この二日、君は何をしていたのか」(『縁』)としつこく問い詰められて、美知代は永代のことを話したという。

 まもなく永代静雄が上京したため、花袋は麹町の義姉の家から自宅に美知代を呼んで軟禁し、その後、父の胖十郎を呼んで美知代を帰郷させるのである。明治三十九(一九〇六)年一月十八日のことだった。

 さて、花袋は、たぶん、美知代のことが忘れられなかったのであろう。美知代が帰郷した年の十月、広島の美知代の実家を訪ね、二日滞在する。

 そして、ついに翌明治四十(一九〇七)年九月、花袋は『蒲団』を発表するのだ。

 小さな田舎町の名家の娘が起こしたゴシップに、家族の者が動揺しないはずがない。

 美知代は実家にいることもできなくなって、上京すると白山御殿町(現・文京区白山)にあった兄・實麿の家に身を寄せる。

再び美知代をモデルにした小説『縁』

 ところが、美知代は、まもなく花袋に仲を裂かれた恋人・永代静雄と再会する。

 そして、妊娠。明治四十一(一九〇八)年十二月から牛込区原町で永代と同居をはじめる。娘の永代との関係を知った美知代の父親は激怒し、花袋に相談して、戸籍上、美知代を花袋の養女とすることを条件に、永代静雄との結婚を認める。

 明治四十二(一九〇九)年三月二十日に、長女千鶴子が生まれる。

 ただ、美知代と永代の結婚はうまくはいかなかった。

 別れた美知代は、千鶴子を連れて田山家に移り、花袋の内弟子となっていた水野仙子と代々木初台に家を借りて共同生活を始める。

 そして、どういう理由か分からないが、娘の千鶴子は、花袋の妻りさの兄・太田玉茗に育てられることになる。太田玉茗は、埼玉県羽生市にある建福寺の住職だった。

 ぼろぼろになりつつあった美知代は、永代と復縁する。

 ところが、この復縁の事情などを、花袋はふたたび小説に書き、『縁』として発表する。

 これについて、美知代は後に「止して貰い度い空想的中傷」(「『蒲団』、『縁』及び私」)と題して、以下のように花袋の筆を批判する。

「昂奮するには当らないのですけれ共、これが普通一通りの作家の材料にされたのと違って、いやしくも一分一厘真を曲げてはならないと云う主義主張の、自然派の隊長たる田山花袋氏の作のモデルにされたのである以上、世間から作に表わされた馬橋や敏子(これらは『縁』の登場人物。馬橋が永代、敏子が美知代)の人格を通して、私達それ自身を批判されなければならぬのが、如何にしても癪で堪りません……田山氏程の秀れた作家には、人の心の奥の奥まで、千里眼のように見透かされもするのでしょう。すくなくとも自分では左様信じていられることでしょうから、あながちにこの忖度が永代の人格を侮辱する為めの言葉か如何か、そんな事を考えて書かれたものと言う訳でもありますまいが、万事『少くとも復仇してやらなければならない』と云う気持で観察され、描写された私達こそ、好い面の皮だと思います」

 永代は明治四十三(一九一〇)年、富山日報に就職し、富山市山王町に自宅を構えた。美知代も永代について富山に行き、明治四十四(一九一一)年三月五日に長男・太刀男が誕生する。

 しかし、この年、長女千鶴子が脳膜炎で急死したという知らせが入る。二人は、心の傷を癒やすために大分の別府で療養し、年の暮れに上京した。

 永代は大正元(一九一二)年秋に東京毎夕新聞に入社をする。

 美知代は花袋と協議し、ようやく田山家から離縁を果たし、ふたたび実父・岡田胖十郎の戸籍に復籍して、大正六(一九一七)年三月に永代の戸籍に入籍したのだった。

自然主義文学の罪

 ……しかし、みたび別れがやってくる。二人は離婚した。

 永代の深酒、貧しい生活などが原因だったと言われるが、花袋に書かれたことが深い傷として二人の間にあったことは確かであろう。

 美知代は、大正十五(一九二六)年、雑誌『主婦之友』の特派記者としてアメリカに渡り、アメリカで知り合った佐賀県出身の花田小太郎という人物と再婚する。

 太平洋戦争が始まる直前、美知代は花田とともに帰国し、広島県庄原市で暮らした。老衰のため亡くなったのは、昭和四十三(一九六八)年一月十九日。享年八十三だった。

 田山花袋は昭和五(一九三〇)年に喉頭癌で死に、美知代の長男・太刀男も昭和七(一九三二)年五月に結核で亡くなった。また、永代は、美知代の渡米後、まもなく大河内ひでという女性と再婚していたが、昭和十九(一九四四)年に亡くなっている。

 日本文学史上、不滅の名作として挙げられる『蒲団』において、赤裸々に、あることないこと書かれた美知代と永代の一生を思う時、改めて田山花袋という作家の作品や自然主義文学というものについて考えてしまうのである。

こう生きて、こう死んだ

田山花袋 明治四(一八七二)年~昭和五(一九三〇)年

群馬県生まれ。本名、録弥。父は下級藩士だったが、警視庁の巡査となり東京に出て、西南戦争で戦死したため一家は群馬に戻った。その後ふたたび一家で上京。尾崎紅葉、江見水蔭に師事し、執筆活動を開始。明治三十二年に友人の詩人で浄土真宗の僧侶、太田玉茗の妹リサと結婚。博文館に勤務するかたわら詩や小説を発表。自然主義の代表的な作家となる。晩年は紀行文や精神主義的な作品を多く残した。喉頭癌で死去。

永代美知代 明治十八(一八八五)年~昭和四十三(一九六八)年

広島生まれ。旧姓、岡田。神戸女学院に入学し、在学中から雑誌に投稿を始める。田山花袋に入門が許されると上京。花袋に師事しながら、女子英学塾(現・津田塾大学)に通う。永代静雄と結婚、離婚、復縁を繰り返す中で小説の執筆を続け、翻訳書も刊行している。永代と決別後、『主婦之友』特派記者として渡米。アメリカで知り合った男性と結婚して帰国。その後も広島で執筆を続け老衰のため死去。

<第4回に続く>

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