大きな決意を胸に、山奥のペンションへ――“ワケアリ”ゲストとオーナーが織りなす奇跡を描く『ペンション・ワケアッテ』【書評】

文芸・カルチャー

PR 更新日:2026/2/18

ペンション・ワケアッテ
ペンション・ワケアッテ(八木沢里志 / ポプラ社)

 旅をする目的は、人によりさまざまだ。気分転換をしたいとき、何らかの区切りをつけたいとき、人生の迷子になっているとき。いずれの場合も、旅を通して出会う人や風景が、自分の中に新しい風を吹き込んでくれる。

 八木沢里志氏による連作短編集『ペンション・ワケアッテ』(ポプラ社)は、山奥のペンションを訪れる「訳あり」のゲストが章ごとに登場する。ペンションのオーナーは、近藤夫妻。二人は結婚を機に、都心を離れて那須に引っ越してきた。妻の楓が振る舞う滋味深い手料理が自慢の宿で、季節の野菜をふんだんに取り入れたメニューは目にも心にも美味しい。夫の小吉は、生物学専門の自然科学者で、ペンション経営の傍ら自然をテーマに雑誌に文章を寄稿している。クマのような大柄な体格でありながら、人見知りで心根の優しい人物だ。ちなみに、「小吉」はペンネームであり、本名ではない。新天地で、新たな名前で生きたいと願う小吉の思いは、物語後半で明かされる。

 手書きの立て看板を目印に進むと、柔らかな笑顔の楓とサビ猫のミリンが出迎えてくれる。無垢材に包まれた吹き抜けの空間と、温もりあふれる大きな暖炉。居心地の良さそうな宿ではあるが、立地的に多くの集客は見込めない。そんな〈ペンション・ワケアッテ〉を選ぶ人たちは、みな一様に「口コミ」に惹かれて足を延ばす。

 長年付き合った恋人に突然別れを突きつけられた女性、些細なことをきっかけに老人ホームを飛び出したマダム、孤独ゆえに「便所飯」を食む自分に嫌気が差した大学生。どのゲストも一様に、胸に何かしらの突っかえを抱きつつ、印象深い口コミに導かれるようにペンションを訪れる。ある種の“逃避”を目的とした人が大半で、憂いを隠しきれない彼らは、宿に向かうタクシーの車内で一様に影のある表情を見せていた。ただひとり、野村まひろを除いては。

 本書に登場するゲストの中で、私がもっとも印象に残ったのは、22歳のまひろであった。タクシーの車内でも運転手にリップサービスを忘れず、楓にも明るい笑顔で接する。だが、その笑顔は虚構で、まひろは大きな決意を胸にこの宿を選んでいた。理由は、平たく言えば家族関係の悩み。だが、その実情は「虐待」にほかならない。まひろはすでに成人を迎えており、その気になれば自立が可能な年齢だ。しかし、母親の強い抑圧がまひろの行動を悉く縛る。「私なんかに選ぶ権利はない」と呟く彼女の一言が、これまでの人生において「選ばせてもらえなかった」経験の多さを物語っている。

“肉親だからとか家族だからとか、関係ない。あなたが幸せでいることを喜んでくれない人たちと、金輪際一緒にいてはいけないわ。”

 楓がまひろに伝えたこの言葉は、真理である。人間関係は、常に変化する。家族であれ、パートナーであれ、親友であれ、何らかの理由で関係が終わることはままある。かくいう私も、家族とはほぼ断絶している身の上だ。自分を粗末に扱う人との関係は、迷わず断ち切っていい。

 このペンションの一番の魅力は、近藤夫妻が醸し出す柔らかな空気と人柄である。何も押し付けず、何も求めない。ただひたすらに、ゲストにとっての「安全基地」であろうとする。そんな二人が作り上げた宿の名前が、なぜ〈ワケアッテ〉なのか。その由来もまた、本書を読み解く重要なフックとなっている。

 楓と小吉が結婚を機に生まれ故郷を離れた理由、夫婦それぞれの生育環境にも、少なからず痛みは含まれる。だが、本書は総じて穏やかで優しい物語である。どのゲストのエピソードに惹かれるかは、各々が生きてきた人生次第。個人的には、スランプに陥った作家の章も実に身につまされた。

 那須は、私たち夫婦のお気に入りの旅先でもある。こんな素敵なペンションがあったら、ぜひ訪れてみたいものだ。意味深な口コミの宿があったら、着の身着のまま、車を走らせるのも悪くない。そういう“逃避”の先で向き合える現実もある。

 那須の空気のように澄んだ物語の余韻は、どこまでも清涼で爽やかだ。その香りを目一杯吸い込み、充分に休息したら、また現実に戻る。重荷も、痛みも、すべては手放せない。だが、それらを一旦脇に置いてひと呼吸する余白を生み出してくれた本書に、私は心から感謝する。

文=碧月はる

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