分娩台の上でシングルマザーになることを決意!? 『テルマエ・ロマエ』作者ヤマザキマリの常識を覆す痛快な人生論【書評】

文芸・カルチャー

PR 公開日:2026/8/8

新版 地球生まれで旅育ち ヤマザキマリ流人生論
新版 地球生まれで旅育ち ヤマザキマリ流人生論(ヤマザキマリ/中央公論新社)

 なめらかな語りを指先でたどりながら、どこにいようと、何をしていようと、頭の中ではどこへだって行けるのだと気づいた。もちろん、今すぐ海外へ飛び立てたらどんなに素晴らしいだろう。けれど、現実にはなかなか難しい。通勤電車に揉まれ、日を追うごとに視野まで狭くなっていくような日々のなかで、この本を開くと、窮屈な現実からしばし解き放たれる。

 そう感じさせてくれたのが、『新版 地球生まれで旅育ち ヤマザキマリ流人生論』(中央公論新社)。『テルマエ・ロマエ』(集英社)で知られるヤマザキマリさんが2019年に刊行したエッセイ集『地球生まれで旅育ち』(海竜社)に、大幅な加筆・修正を施した一冊だ。

 17歳で油絵を学ぶため単身イタリアへ渡り、極貧生活の末に妊娠。分娩台の上でシングルマザーになることを決意し、その後は研究者であるイタリア人男性と結婚。夫の仕事に伴い、中東、ヨーロッパ、アメリカ大陸などを渡り歩いてきたその半生は、まさに波瀾万丈だ。だが、心を奪われるのはその経歴だけではない。各地での暮らしと、そこから生まれたヤマザキさんの思考を追っていると、心の中を爽快な風が駆け抜けていく。もっと広い視野で物事を見てもいい。自分の人生にも、まだいくつもの選択肢があるように思えてくるのだ。

14歳、たったひとりで欧州へ

 ヤマザキさんの原点は、14歳の冬に経験した、1カ月間のヨーロッパひとり旅にある。その旅は、音楽家である母の強引な勧めによるもの。片言の英語しか話せないまま、ヤマザキさんはひとりでドイツとフランスを巡った。言葉が通じなくても、予約の手違いでホテルから放り出されても、お腹を壊しても、ひとりでどうにかしなくてはならない。心細さに耐えるうち、ヤマザキさんは「自分は思っていたよりも案外頼りになる人間なのではないか」と感じ始めたという。

 さらに、旅の終盤には、人生を左右する出会いも待っていた。ブリュッセルからパリへ向かう列車で出会ったのは、イタリア人の老人・マルコ。彼は14歳の少女をひとり旅に出した親を非難したかと思えば、旅程にイタリアが入っていないと知るや、「ローマもフィレンツェもヴェネチアも見ずに、何がヨーロッパだ」と憤慨した。この出会いを機に母とマルコは文通を始め、2年後、母は娘に、高校を辞めて絵を学ぶためイタリアへ行ってはどうかと、再び大胆な提案をする。下宿先はマルコのもと。そして後年、ヤマザキさんの夫となったのは、その孫だった。

「やってみるしかない」と送り出した母

 もし私がヤマザキさんの母親だったら、14歳の娘をひとり旅へ送り出せるだろうか。いや、おそらく心配が先に立ち、送り出せそうにない。実際、ヤマザキさんの母も周囲から非難されたらしい。それでも、この旅がヤマザキさんの人生を動かし、やがて『テルマエ・ロマエ』を生み出す土壌になったことは間違いない。

 周囲と足並みをそろえることに息苦しさを覚え、自らの感覚を頼りに生きようとする娘の気質を見抜いて、その背中を押した母。その決断力には圧倒されずにはいられない。何かを思いつくと、「やってみるしかないわよ」と実行に移す母自身も、家族の反対を押し切って北海道へ渡り、創設されたばかりの札幌交響楽団に飛び込んだ人だ。「やりたいと思うことがあったらどんどん動くしかない」「せっかくの人生なんだから、使い切っていかないともったいない」——その力強い言葉に、読んでいるこちらまで心を揺さぶられる。

母の愛は、抱きしめることだけではない

 本書では、さらに、ヤマザキさんが異国で目にした母子関係も描かれる。

 イタリア人の夫と姑は、一日に何度も電話を交わし、惜しげもなく愛情を表す。早くから娘を自立へ向かわせたヤマザキさんの母とは対照的だ。母子関係にひとつの正解はない。国の数、人の数だけ親子の形があるのだろう。さまざまな愛情の示し方に触れるにつれ、自分はどんな親でありたいのかと考えさせられる。

 母という存在。ヤマザキさんが幼少期を過ごし、地球の大きさを肌で感じた北海道の雄大な風土。海外での暮らしと、そこに息づく芸術や歴史。世界各国で出会った強烈な個性の人々……。この本には、ヤマザキマリという人をつくり上げてきたものがギュッと詰まっている。孤独も疎外感も、貧乏も挫折も、彼女はなかったことにはしない。どれも自分を形づくり、たくましさを与えた経験として受け入れている。その姿を見ていると、私たちは思っているほど弱くないのだと気づかされてしまう。

 本を閉じたあと、いつもと変わらない通勤電車の窓の外が、ほんの少しだけ広く見えた。たとえ今すぐ遠くへ行けなくても、次に進む道は、いつだって自分で選んでいい。広い世界で、たくましく生きてやろう。そう背中を押してくれる一冊だ。

文=アサトーミナミ

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