男女の同居=恋人って誰が決めたの? 「恋じゃないかたち」でともに生きるふたりを描く、畑野智美『ヨルノヒカリ』【書評】

文芸・カルチャー

PR 公開日:2026/8/21

ヨルノヒカリ
ヨルノヒカリ(畑野智美/中央公論新社)

 未婚の男女がひとつ屋根の下に暮らしていたら、多くの人は恋人同士、あるいはそれに類似した関係だと思うし、そうではないと言われても、互いに恋人がいなくて、かつ大事に想いあっているなら、つきあってしまえばいいのにと、無責任に口にしたりする。実際、小説『ヨルノヒカリ』(畑野智美/中央公論新社)で描かれる、ひかりという20代の青年と木綿子という7歳年上の女性が、同居しながら少しずつ距離を縮めていく過程に触れながら、もうそれって「好き」じゃん、恋じゃん、と思ってしまったりする。

 だけど、ちがうのだ。二人はたしかに、互いをほかにない存在としてたよりにし、心をゆるし、そしていつまでも一緒に暮らしていけたらいいのにと願っているけれど、恋人ではないし、そういう関係になりたいとも思っていない。二人の友人たちも、そのことにどこか納得しきれないものを感じているし(二人が幸せであればそれでいいと基本的には干渉せず見守る姿勢、とはいえ)、読者のなかにもじれったく感じる人は少なからずいるだろう。でも、なぜまわりを安心させ、納得させてあげるために、自分たちのありのままの気持ちをねじまげなくちゃいけないのだろうか。

恋をおそれる青年と、恋愛感情が理解できない女性

 ある事情で家を失い、職もなく、木綿子が営む手芸店に住み込みで働くことになったひかりは、恋というものをおそれている。幼いころから自分より恋人を優先し、どんなに頑張っても自分を一番大切にしてくれなかった母は、あるとき突然再婚して出ていったきり帰ってこず、知らない場所でひとりぼっちで死んでしまった。恋人がいたことはあるし、性欲だってあるけれど、それが自分と他者を結びあわせてくれるものだと信じていない。ふだんは穏やかだけど、自分が大事だと決めた人が少しでも傷つけられると激しい怒りを爆発させる彼は、自分がコントロールを失ってしまうことも怖いのだろうと思う。

 一方、木綿子は恋愛感情そのものを理解できていない。この先誰のことも好きにならない、という確証もないから、調べて知ったアロマンティックという定義に自分があてはまるかどうかもわからない。〈自分がどこに分類されるかわからなくて、輪郭が失われていくような気持ち〉と彼女があらわすシーンが印象的だった。INFPだ骨ストだとみずからを細かく分類して、取扱説明書をつくりあげていくことでラクになる人も現代ではとても多いけれど、分類すればするほど、本当の自分がこぼれて、どこにも受け止めてもらえなくなるおそれを抱える木綿子みたいな人もきっと少なくない。

恋じゃないかたちでともに生きようとする男女

 一生懸命、型にはまろうとして、ふつうである顔で生きようとして、ちぐはぐになりそうな心をどうにか守り続けてきたのが、ひかりと木綿子だ。出会って、ようやく、ほっとできた。そのままでいいと思えた。そんな二人が、恋じゃないかたちでともに生きようとする姿に、読みながら祈るような気持ちになる。

 どんな属性でも、属性を見つけられなくても、誰だって安心して生きていける場所があってほしい。傷つかないために孤独になるのではなく、人とのつながりのなかに安心を見つけたい。そんな切実な願いに、本作は、希望の光を差し込んでくれる。

文=立花もも

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