【凪良ゆうが描く人類滅亡前の世界】地球に小惑星が衝突して人類滅亡――全世界を駆け巡った重大ニュース/滅びの前のシャングリラ④

文芸・カルチャー

更新日:2021/1/21

『流浪の月』で2020年本屋大賞を受賞した作家・凪良ゆうさん最新作。
クラスのカースト上位男子からいじめを受ける17歳の友樹は、小学生の頃から同級生の雪絵に片想いをしている。
ところがある日、地球に小惑星が衝突して人類が滅亡することがわかり…。
滅亡を前に、絶望と混沌のさなかをどう“生きる”かを描く、傑作小説。

【第1回から読む】17歳、クラスメイトを殺した。/凪良ゆう『滅びの前のシャングリラ』①

滅びの前のシャングリラ
『滅びの前のシャングリラ』(凪良ゆう/中央公論新社)

「またいじめられたのか」

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 その日の夕飯中、母親からずばりと問われた。

 なんのことですか、という顔でとぼけたが無駄だった。

「制服のシャツに血が飛んでたぞ」

 母親は忌々しそうに舌打ちをし、晩酌のビールをぐびりと音を立てて飲んだ。

「ちゃんと洗うよ。うちの洗濯当番はぼくだし」

 けろっとしたふうを装った。いじめられている事実は隠せないまでも、それで傷ついているとか落ち込んでいるとは思われたくない。子供だって親に対して見栄がある。

「洗濯当番云々より前に、シャツを買う金を稼いだのは誰だ」

「お母さんです。汚してごめんなさい」

 素直に謝ると、よし、と母親はうなずいた。

「で、一発くらい殴り返したか」

 ぼくは無言で立ち上がり、ご飯のおかわりをよそいにいった。一緒に玉子も取ってきて大盛り玉子かけご飯にしてずるずるかき込むぼくを、母親はビールグラス片手にまじまじと見ている。

「おまえはなんでそんな腰抜けなんだ。ほんとにあたしの息子か」

「ぼくもほんと不思議だよ」

 シャツに血がつくようないじめを息子が受けていると知ったら、よその母親はとりあえず心配するんじゃないだろうか。なのに、まずやり返したかどうか訊いてくるのがうちの母親だ。

 うちには父親の写真はないが、母親の昔のアルバムならある。そこには井上なんぞ蹴りの一発で吹き飛ばしそうな、やばさ全開ドヤンキーな母親の青春が写っている。今はパサついた髪を後ろでひとつにくくった普通のおばさんだが、ひとりで仕事も家事も育児もこなしてぼくを育ててくれた根性者で、口は悪いし性格もきついけれど、ぼくは母親が嫌いじゃない。

「一寸の虫にも五分の魂っていうだろう。多勢に無勢でも、死ぬ気で刃向かったらひとりくらいはやれるんだ。その根性に周りがビビって引く。喧嘩は気合いだ」

「ぼくは上品だったお父さんに似たんだと思うよ」

「馬鹿言うな。おまえのお父さんは喧嘩だってめちゃくちゃ強かったぞ。殴り合いで負けたとこなんて見たことないね。布袋寅泰と同じくらい背が高くて強くて賢くて真面目で誠実で―」

 母親のいつもの理想のお父さん語りがはじまった。

「上品で誠実なのに殴り合いの喧嘩するの?」

「必要なときには」

 設定が破綻しまくっているが指摘はしなかった。母親の夢を壊してはいけない。けれど布袋寅泰と身長が同じというのだけが妙にリアルなので、高身長なのは本当なのだろう。

「お父さんの欠点は早死にしたことだけなんだね」

 まあ、そうだと母親はあっさり肯定した。これまで何人か父親候補になりたそうな男が出入りしたこともあったが、どれも長続きしなかった。ぼくのことなら気にしないで、好きな人ができたらいつでも再婚していいよと言い続けてきたが、母親はそのたび言った。

 ―おまえのお父さんに比べるとインパクトがないんだよ。

 そこまで惚れられるぼくの父親とは、どんな人だったのだろう。

『今夜は予定を変更して、アメリカCNNテレビからの一報についてお送りいたします』

 ぼくはつけっぱなしだったニュース番組に目をやった。

『アメリカのCNNテレビが地球への小惑星衝突を速報で流し、現在アメリカ各地で小規模な暴動が起きています。CNNテレビが独自に入手した情報であり、真偽は定かではなく、この件に関して明日にもアメリカ政府の公式会見が予定されているということです』

 地球滅亡と笑っていた井上たちの馬鹿面を思い出した。しかしこんなネットにあふれるフェイクニュースで暴動まで起きるなんて、アメリカという国はアグレッシブすぎる。

「友樹、これまじなのか?」

「デマだよ。アメリカは隕石や滅亡ネタが異様に好きなんだ」

「けどアメリカ政府が公式会見するって言ってるぞ」

「暴動が起きてるから、ちゃんと否定するんだと思うよ。ほんとにやばいんだとしても、NASAとかの賢い人たちがなんとかするよ。映画でもそう決まってるし」

 ふうんと母親がうなずく間にニュースは次へと移っていく。

『今日午後、東京都内で波光教の幹部と思われる男が身柄を確保されました』

 ふたたびテレビに見入った。今年の夏、以前からきな臭い噂が絶えなかった宗教団体、波光教についに強制捜査が入り、テロにも使われる危険な薬物が押収された。

 最初はよくある新興宗教団体だと思われていたが、数年前から徐々に奇妙さが浮かび上がってきた。おかしな器具をつけての修行、出家信者と家族との断絶、波光教を調べていたフリーライターの失踪などが続き、駄目押しが教団本部近くで起きた異臭騒ぎだ。

 死者まで出てしまい、ついに警察が動いた。数日に及ぶ教団内部の捜索の末に教祖は逮捕されたが、幹部数名が薬物を持ち出して逃走した。警察は総力を挙げて行方を追っているが、全国にいる在家信者が匿っているらしく、成果は上がっていなかった。

「三ヶ月もかかってやっとひとりか。一般市民から高い税金むしり取ってんだから、だらだらしてないで早く全員とっ捕まえろよ。これじゃ安心して遠出もできやしない」

 いつどこで危険な薬を撒き散らされるかわからないので、都会の繁華街や電車は厳戒態勢が続いている。小惑星で人類が滅亡なんて馬鹿らしいデマよりも、こちらのニュースのほうがよっぽど重大だ。とはいえ、事件発生から三ヶ月も経つと緊張もゆるんでくる。

「だらだらテレビ見てないで、おまえは早く勉強しな。もうすぐ中間テストだろ」

「やっても一緒だよ。どうせ馬鹿だし」

「どうせとか言うな。流血沙汰のいじめなんて高校までだ。エリートになれなんて言わないから、せめていじめなんてする馬鹿がいない場所に行けるようがんばれ」

 そう言うと、母親は二本目の缶ビールを取りに台所へ行った。

 母親は学歴がないせいで就職に苦労した。その反動で、ぼくには勉強しろとうるさい。期待に応えたいのはやまやまだが、今の成績ではたいした大学には行けないだろう。そんなぼくの進学費を用意するために、母親は毎月かなりの残業をしている。

 漫画や小説や音楽など、人生一発逆転の才能も今のところ見当たらず、井上の機嫌ひとつに翻弄される日々。おそらく、ぼくは無装備で未来に立ち向かうことになる。

 それらの憂鬱をすべてリセットしてくれるなら、小惑星でもなんでも落ちてくればいい。出口のない未来ごと、もうどかんと一発ですべてチャラになればいい。そんなふうに、たまにやけになってしまうのはぼくだけなんだろうか。ぼく以外のみんなは煌めく毎日を送っているんだろうか。世界のどこかに、ぼくと同じ気持ちのやつはいないんだろうか。

 ごく平穏を装いながら、まったりと絶望しているぼくのような誰かは。

 

 翌日の教室は、いつもより活気があった。

「昨日のニュース見たか。隕石が衝突して人類滅亡するってほんとかよ」

「隕石じゃなくて小惑星だろ」

「地球の前に、月にもぶち当たるかもってネットで見た」

「それ俺も見た。月が割れて落ちてくるって」

「ぶつかるのは一年後とか一ヶ月後とか、ネットじゃいろいろ言われてるね」

「もうすぐ東京ドームでLocoのライブがあるんだよ。大丈夫かな」

 小惑星が落ちてくるというのにライブどころじゃないだろう、というツッコミは無用だ。誰も信じていないし、単に大きなお祭りみたいに楽しんでいるだけだ。

 朝のチャイムが鳴り、担任が入ってきた。

「おはよう。みんな席着けー」

 滅亡の予兆などまったく感じさせず、普段どおり平和にホームルームがはじまった。まあそうだよなあと、ぼくは頬杖をついて担任の話を聞く。小惑星衝突なんて大事件がそうそう起きるはずがない。衝突したとしても、きっとたいしたことにはならずに終わる。

 そうしてこの先も、ぼくの平穏で絶望な人生は続いていくのだ。

 溜息が洩れてしまい、ぼくは小さく頭を振った。昨日がなかなかハードだったので、気持ちが落ちたまま戻りきらないでいる。こういうときこそユーモアと妄想を忘れるな。

 ぼくは羊の皮をかぶった獣。

 いつかもこもこのウールを脱いで、荒野を駆ける獣になる。ははは。

 今日は珍しく平和に終わった。いじめの現場を藤森さんに目撃され、さすがに井上たちもバツが悪いのだろう。テンションも復活した放課後、ドラッグストアに寄ってスナック菓子と薔薇の香りの柔軟剤を買った。これで藤森さんのハンカチを洗おう。悲惨な経緯でぼくの元にやってきたハンカチだが、返すときのことを妄想すると心が落ち着かなくなる。

 ―わざわざ洗ってくれてありがとう。いい匂いね。

 ―藤森さんには薔薇が似合うと思って。ぼくのほうこそありがとう。

 ―ううん、わたしも前に江那くんに助けてもらったし。

 見つめ合うぼくたちの間には、今までにない甘い空気が漂う、という互いの性格まで改変された藤森さんとぼくのセカンドラブストーリー第一話に没頭していると、

「わたしたち、死ぬのかな」

 という女の子の甘い声が聞こえた。電車の向かいの席に座っている大学生らしきカップルが、周りに見せつけるように身体をくっつけている。死という言葉を口にしながら、ふたりの頬は生を謳歌しているかのように紅潮し、活き活きと小惑星衝突について話している。

「最期のときも一緒にいようね」

「当たり前だろう。死んでも離さないよ」

 今にも唇が触れ合いそうな至近距離でふたりは囁き合う。ふたりの隣に座っているサラリーマンも、反対隣の子供連れのお母さんもしょっぱい顔で明後日の方向を見ている。

 ―最期の瞬間まで、幸せでいいですね。

 こういうとき、ぼくはできるだけ柔和な表情を心がける。脳内お花畑なカップルに余裕を見せることで、なにひとつ煌めかない自らの青春を客観視できているクールなぼく、という内部複雑骨折的な方法で自身のプライドを救っているのだ。こじらせている、とも言う。

 けれどその夜、お花畑な恋人同士、クール気取りでこじらせているぼく、一日の労働を終えて恒例の晩酌を楽しむ母親、薔薇の香りを漂わせて干されているハンカチ、それらをまとめて嘲笑うかのような、この世の灯火をすべて吹き消す重大ニュースが全世界を駆け巡った。

 

 一ヶ月後、小惑星が地球に衝突します。

続きは本書でお楽しみください。